ニューヨーカーが見た『UNLOVED』

万田邦敏

 去年の3月27日に、『UNLOVED』の製作会社を通じて、ニューヨーク在住の映画パブリシスト、ルシャス・バール氏から『UNLOVED』についての質問状をメールで受け取りました。映画パブリシストというのは、映画制作会社とマスコミとの橋渡しや、イベントの企画運営をしたりするひとなのだそうです。2001年5月のカンヌ映画祭においても、『UNLOVED』のマスコミ取材の管理等をしていただき、大変お世話になったのですが、質問状を受け取ったときは、いったいこの人はどんな人なのだろうと、なんだかちょっと不安でした。以下がバール氏の質問とわたしたち(邦敏と珠実。ただし文中「わたし」とだけあるのは邦敏)の回答です。(ルシャス氏の質問は、原文英語。製作会社の人に和訳してもらいました)

質問1.この映画は何にインスパイヤーされたものですか? シナリオはどのように作成されたのでしょうか?

回答:ひとつの映画を監督しようと思い立つとき、様々なレベルで、様々な思いが複雑に入り乱れますし、映画の出発点が何であるかについては、意識的であることもあるでしょうが、大抵は無意識的です。だから、何にインスパイアされたかを一言で表現するのはとても不可能ですし、それを映画ができ上がってしまった今からふり返って敢えて言葉にしようとすれば、劇中の光子の台詞ではありませんが、どんどん嘘になっていきそうです。
シナリオの作成に当たっては、妻の珠実との完全な共同作業でした。もともとの企画は彼女のものです。登場人物のキャラクターの設定やプロットの組み立てもすべて珠実とのディスカッションを経て決定していきました。光子の台詞の原形は彼女が書いたものです。それを私がリライトして彼女に見せ、さらにそれを彼女がリライトし、さらに私がリライトし、……という作業の繰り返しでした。
質問2.キャスティングはどんな方法でなされたのかお聞かせください。キャスティングの後、シナリオは変更されましたか?
回答:メインのキャストに関しては、私と珠実のイメージキャストをプロデューサーに伝え、製作条件や役者の承諾等を考慮して決定していきました。主人公の光子役の女優に望んだ最も重要なポイントは、男性に媚びない風貌と所作をもっていること、それが自然体で表現できることでした。
キャスティングのせいでシナリオが変更になったのは、勝野の設定年齢が下がったこと(当初は42歳の設定)くらいで、後はほとんどシナリオのままでした。
質問3.この映画の映像的なものはどのように作り上げられたのですか? 広範囲に亘るストーリーボードはあったのでしょうか? 撮影チームとは、頻繁に打ち合わせされましたか?
回答:ほとんどのシーンで絵コンテ(ストーリーボードに当たるものだと思います)を描いて撮影に臨みました。撮影チームとは準備段階にも撮影中にも頻繁に打ち合わせを重ねました。その打ち合わせによって、現場でコンテを変更することもありましたが、撮影チームは、多くの場合、私のイメージを如何に画面にしていくかに腕を振るってくれました。
質問4.この映画は、ロバート・ブレッソンやミケランジェロ・アントニオーニのミニマリスト的スタイルを彷彿とさせるものであると同時に、会話のスタイルは、ジョン・カサベテスにも非常に似ているものでした。これらの監督の作品が万田監督のスタイルに影響を与えたと言えるでしょうか? 上記監督以外に、万田監督にインスピレーションを与えたり、作風構築の助けとなった映画監督はいらっしゃいますか?
回答:ロバート・ブレッソン、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジョン・カサベテスはいずれも私の敬愛する監督たちです。彼らのような映画を撮りたいと常々思っています。私は中学生の頃からの映画ファンですから、敬愛する監督はたくさんいます。準備中にはそれらの人々の作品をビデオで何度も見直します。今回は彼らのほかに、何よりも増村保造とジャック・ドワイヨンを心の支えにしていました。
質問5.劇中、光子だけが、個人としての満足を見出すことに成功しますが、野心のなさや、いろんな可能性を模索することが出来ない様は、致命的な欠陥に思われました。二人の男(ビジネスマンとフリーター)は、本質的に野心的であり、光子はそうではありません。こうした光子の人生(生き方)は、女性の人生(生き方)の自然な状態であると言えるでしょうか? あるいは、社会は彼女がひとかけらの粘土(作り手の自由に変形されるもの)であることを望んでいるという点で、彼女は社会の犠牲者と言えるでしょうか? 自分の可能性全てを発揮することは、女性の役割でしょうか?
回答:仕事で成功し、社会で評価されることが生きていくうえで最も価値があるものだという考え方自体、男性が作り上げた社会システムに縛られた価値観によるものだと私達(私と珠実)は考えます。映画の主人公光子が否定するのは、野心そのものではなく、男性社会が作り上げた「野心」という言葉です。彼女がその言葉の呪縛から自由であることが、彼女の真の意志の強さです。その真の意志の強さに彼女と関係した男達は戸惑うのです。だから、彼女が社会的な成功に対する野心をもたないのは、彼女がひとかけらの粘土(作り手の自由に変形されるもの)であるからではなく、むしろそれとは正反対の意味をもっています。彼女は「野心」という言葉を否定することで、そういう社会に対し戦いを挑んでいるのです。その戦いは、これ見よがしの戦いではありません。彼女は男性女性の違いを超えて、一人の人間として、自然体でその戦いを戦っているのです。そこが彼女の真の強さかもしれません。私達はそういうヒロインとして彼女を造形しました。仮に彼女が社会の犠牲者であるというとき、その社会は「男性社会」を意味しています。彼女を「UNLOVED」と決めつけるのは男達です。しかし、一人の人間の生き方として彼女が果たして「UNLOVED」であるかどうかは、映画を見て下さった方達の判断に委ねたいと思います。
誰かが評価をしてくれるから自分に安心していられるのではなく、自分が自分に満足していられることこそが、強く生きていくことの意味なのだと思います。向上心を否定しているのではありません。ただ、自分自身に嘘をつき、無理をしてまで何かを得ようとするのは一体何のためなのか、そのとき自分の欲望そのものがどのようなシステムに掠め取られているのかを考えてみることは必要だろうと思います。
男性社会の価値観に背を向ける光子は、一種のアウトローだと言えるかもしれません。
質問6.本作品の3人の主人公は、現代社会における典型的人物像と言えるでしょうか?彼らの関係性の中に、昔から存在する男女間の争いを見出すこともできますし、社会階層間の争いに関する描写も見られます。この作品の社会的視点をどの様に表現したらよいでしょうか?
回答:日本は階級社会ではありません。現在の日本を舞台にして社会階層間の争いをドラマティックに描くことは現実感を伴いません。しかし、ごく小さな階層の違い、例えば大学卒であるか高卒かといったことが男女の付き合いの中で、心の中の小さなひっかかりになるようなことはありえます。育ちの微妙な違いを意識したとたんに、突然相手との距離や感情のすれ違いを感じてしまったりすることはありえます。現実はむしろそのように過酷なものです。そのこと自体が男女のいさかいの原因にはなりえなくても、いさかいを加速することはあるでしょう。きれい事を言えば、それらの感情は否定されるべきものかもしれません。しかし、男女の付き合いの中で、そういう感情が生なものとして動くことを否定するつもりはありませんでした。それをも否定することは光子から生身の感情を奪うことになりかねませんでした。光子が完璧な人間であるとは思っていません。そもそも完璧な人間など存在しないでしょうし。
3人の主人公が現代社会における典型的人物像かどうかは、この映画を見る人の感じ方によると思います。光子のような人物は、まず現実に存在しません。彼女はあくまでも映画の中のヒロインです。ジェームズ・ボンドやハリー・キャラハンが現実に存在しないのと同様です。男二人にしてもそうです。だからといって彼らの存在のリアリティがないかといえば、それはまた別の問題です。見た人が3人のうちの誰かに自分を重ね合わせて、彼らの生き方と自分の生き方について考えてくれることがあれば、そのときその人にとって彼らは実在しているのです。そのように映画を見てもらえれば、こんなに嬉しいことはありません。
質問とその回答は以上です。いま読み返すと、わたしたちの回答には、ルシャス氏本人を未だ知らないことやルシャス氏が『UNLOVED』にどんな感想をもっているのかがわからないことからくる警戒心があったことが窺えます(特に質問5)。ところが、質問に答えてから1週間後に、以下のようなルシャス氏の『UNLOVED』評がメールで届き、わたしたちはびっくり仰天しました。
ルシャス・バール氏の『UNLOVED』評 01.4.4
(原文英語。製作会社による和訳)

 何と素晴らしい映画だ。関係者の方々におめでとうと言いたい。
 この映画は明晰で、よく考えられた映画であり、演技も映像も素晴らしいので、上質の無声映画の様でもある。と同時に、劇中の会話は、複雑な感情と登場人物間の口論をカサベテスのように深く洞察するものである。素晴らしい融合である。
この映画は、始まりから核心に一気に突き進み、全編に亘って核心を射続ける。第1章では、ストーリーがあまりに単純すぎると思ったが、それは、発展し続け、驚くべきエンディングを迎える。グランドオペラがそうであるように、直線的ストーリーを語ることは、最後まで見ないと平坦に見えてしまうものなのである。
 ジグザグ走行する山岳電車のように、登場人物の間で繰り広げられる口論は、一転二転するのだが、それを実に巧みに扱うところに、監督の力量が見出せる。幾度となく私は息を呑んだ。同様に、キャラクターを知るにつれ、彼らに対する私の共感は変容し、決して固定化することはなかった。時に幾分ビートに欠け、感傷的ではあったが、登場人物は皆共感を覚えるものだった。
 映画の中で感情的に最も盛り上がるところが、ベッドの中で彼女が完全な幸福感を味わうところだというのも非常に感動的である。彼女の満足は、非常に稀有な類のものである。それは、喜びでもなく、幸せでもない。満足感とは、そのどちらよりも稀であり、かつ恐らく豊かなものである。
 二人の男は、明かに典型的な人物であるが、人間の息使いが感じられ、変化している存在である。私は、あのビジネスマンが初めのところで、悲しげな老婦人と話しているシーンがなかったら、彼にはそれほど共感を憶えなかったであろう。
 主役の女性にとって、実は彼女自身が最大の敵であったというのも賢い描きかただと思われた。その問いは映画の後半1/3の間、私を興奮させるに十分であった。
 『UNLOVED』は、男女間の争いとは言わないまでも、男女間のバランスというテーマと、微妙に描き出される階級間の争いというテーマとを結びつけている点で成功を収めている。急進的な女権論者がこの映画をどう見るだろうかと考える。ビジネスマンだらけで、フリーターの少ないNYで是非見せたい作品である。
 近頃NYでは、経済の崩壊とまでは言わないが、人生に対する期待感を下げようと人々は口にしている。とりわけ、失業した人や株価下落で巨額の損失を被った人は、質素でこじんまりした暮らしに幸せと満足を見出そうとしている。ご存じのように、NYのトップビジネスマンたちは、ねずみのような競争社会から抜け出し、ハリウッドへ行くことだけを夢見ている。ハリウッドへ行けば、クリエイティブな仕事ができ、魅力的で若い女性をはべらせられるから。女性が、各自に内在するあらゆる可能性を追求することは、女性のあるべき行き方だろうか? この議論は女性解放運動の上層部では今も交わされているものである。
 カルバン・クラインの使いかたもよかった。あの白のドレスと白の靴に代表される、彼女のキャンバスの様な無表情は、80年代の中身を伴わない権力を完璧に象徴するものだった。彼らがその後出かけたレストランには、感傷的なピアノの音色以外に、全く人間の温かみがないのもよい。
 私は、この映画のタイトルからして、この映画は、疎外感、離散、孤独感で終わるだろうと予想していたが、実際のエンディングは驚くべきもので、それがまた実に美しくかつうまく機能していた。私はただ息を呑むばかりだ。あの若者が、彼女は彼の感情に対して何の責任ももち得ないということに気付き、それを受け入れたのは、当然のことであり、理解できることであった。

以上がルシャス氏の評なのですが、これに驚かずしていったい何に驚くのだ、というくらいわたしたちは驚き、そして喜んでしまいました。ニューヨーカーに何でこんなに受けてしまったの?! と不思議な気持ちにもなりました。しかもこの文章は、わたしたちが触れた一番最初の『UNLOVED』に対する賛辞でした。現金なわたしたちは、ルシャス氏に対する警戒心をすっかり解いて、さっそくルシャス氏に礼状を送りました。

拝啓ルシャス・バール様
 この度は私たちの映画『UNLOVED』の感想を送っていただきましてありがとうございます。本来ならば英語で直接お返事しなければならないところなのですが、残念なことに私たちは二人ともまともに英語が書けず、また話せません。そこで日本語で書いたものを製作会社の方に英訳してもらうことにしました。
 ルシャスさんの好意的な文章に、まずお礼申し上げます。正直に言いますと、私たちの映画がニューヨークの方にこれほど気に入ってもらえるとは考えてもいませんでした。しかもルシャスさんの評は、私たちの意図を正確に代弁しつつ、かつ私たちの意図を越えてこの映画の存在意義を探って下さっている点でとても感心し、大変嬉しく思いました。
 主要登場人物の3人のキャラクターについては、それぞれが一面的ではなく多面的になるよう心掛けました。その多面性が口論の中で見えてくるようにしたつもりでした。口論を単なる感情のぶつかり合いとして捉えずに、多面的な性格が露呈し合うドラマとして捉えました。この映画のストーリーそのものはいたって単純なものです。この映画はそもそもストーリーの展開の面白さで見せるものではありませんでした。3人のキャラクターがどう変容し、それによって3人の関係がどう変わっていくか、そこにシナリオ上の工夫を凝らしたつもりです。その点でカサベテスとドワイヨンの映画は良き手本でした。ただ、カサベテスとドワイヨンの映画の口論は、内容も演出も非常に生っぽいものだと思います。この映画では、カサベテス的な口論をブレッソン的な、静的であるけれども映画としては非常に動的でもある演出で映像化することが演出上の目論みでした。ブレッソン的でありかつ小津的であるような映像を狙いました。
 主人公の女性が真に愛する男とベッドインして、彼女が感じた幸福感を「単なる喜びでもなく幸せでもない」というルシャスさんの指摘は大変嬉しいものです。確かに彼女は非常に稀で、かつ豊かな満足感を感じたのだと思います。
 また、「彼女自身が、じつは自分にとっての最大の敵であった」という指摘も、そういうふうにこの映画を見てもらえれば、と思っていた箇所です。彼女は自分の生き方に絶対の自信をもっていますが、その自信こそが、他人から「UNLOVED」の烙印を押される所以でもあります。彼女はその自信を信条として生きる以外、他の生き方が出来ない女性です。彼女の生き方は気高くはあっても、それがそのまま社会に通用するのかどうか、彼女自身が自分の中の敵と戦わなければ、彼女は社会性を獲得できないのではないのか。私たちは彼女の生き方が最良だとは思っていません。しかし、つまらない妥協をしてほしいとも思いません。愛する男との口論の果てに、彼女が「私にはこうしかできないのよ」と言うとき、それは男に向かって言っているのと同時に、あるいはそれ以上に自分自身に向かって言っている自分の存在を賭けたぎりぎりの台詞なのだと思います。
 ラストで男が彼女のもとに戻ってくる点については、じつはハッピーエンドになりすぎるのではないかと危惧していました。ルシャスさんに「美しくかつうまく機能していた」と感じていただけたのはとても嬉しいことです。

この映画が、ニューヨークにお住まいのルシャスさんに好意的に受け入れられたように、わが日本においても評価されることを願っています。
本当にありがとうございました。いつかお会いできる日を楽しみにしております。

Kunitoshi & Tamami Manda     01.4.5

カンヌで会ったルシャスさんは、大変な巨体でした。彼は、いくつかのマスコミ取材やパーティーの場にわたしたちを引き連れていってくれたのですが、それでなくてもチビなわたしたちが巨体の彼の後を金魚の糞よろしく付いていく様は、ちょっとギャグ映画に使えそうなくらいだったろうと、いま思います。

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