万田さんへの手紙

井川耕一郎


『UNLOVED』は、人生にぐさりと突き刺さる棘みたいな映画ですね。たとえば、映画の後半で、下川(松岡俊介)が勝野(仲村トオル)の家を訪れるシーン。下川が光子(森口瑤子)にふられた勝野に「あんた、本当は不幸なんだろう」と言えば、勝野も勝野で、もうじき三十になろうというのにいまだフリーターの下川に「羨ましいんだろ、ぼくが。ぼくの暮らしが」と言い返す。互いに相手の弱点をついて優位に立とうとするこのシーンは、どこか身に覚えがあるというか、もう二度と見たくないくらいの名シーンです。下川について言えば、どうだ、お前にこんなものはないだろう、とヤケドの痕まで見せようとするところは、まるきりお子さまですね。しかも、このシーンの後、彼は勝野の車でアパートの前まで送ってもらうのだから、いよいよもって情けない。けれども、それ以上にみっともないのは勝野で、アパートの前で「面接の話は嘘だよ。きみみたいな男がぼくの会社で勤まるわけがないだろう」などと下川に言い放つ。やれやれ、まったくこんなチャチな意地悪をしてまで優位に立ちたいとは! きっと勝野は生涯、自分のしたことを恥じるでしょう。そして、真夜中ふいにその夜の愚行を思い出して、あーッ!と声をあげてしまうにちがいない。少なくともぼくが勝野なら、そうなってしまいますね。

それにしても、森口瑤子演じる光子とは何者なのでしょう。興味深いキャラクターです。彼女は「一緒に暮らそう」と提案する勝野に対して、「わたしあなたの生活が羨ましいと思ったこと、一度もない」と言い、「人から見れば貧しくても平凡でも、わたしには今の生活が大切なの。そこがわたしのいる場所なの」とも言う。また、社会的に成功した勝野を羨む下川に対しては、「何であの人と自分を比べるようなことをするの。馬鹿らしいと思わないの?」と問いかける。要するに、光子が言おうとしていることは、植物のように生きるということではないでしょうか。植物には、自分が根を下ろしたたった一つの場所しか存在しない。だから、「ここ」とか「あそこ」とかいった場所の観念は、移動できない植物の生には無関係である。人間も含めた動物にとって、このような植物の生は容易には想像できないものではないでしょうか。そう言えば、以前、新宮一成の『無意識の組曲』(岩波書店)を読んでいたら、ラカンのこんな言葉が引用されていました。「植物であるということは、おそらくは無限の痛みのようなものであるだろう」。たぶん、『UNLOVED』の光子が生きようとしている生はこれではないでしょうか。実際、彼女の部屋を見ていると、ささやかな幸せに自足しているというより、まるで苦行僧のように生活しているといった感じです。一体なぜ光子は植物のような生を送っているのでしょうか。また、なぜ万田さんは彼女のようなキャラクターを描こうと思ったのでしょうか。

万田さんは、『UNLOVED』という企画はそもそも奥さんの珠実さんの発案によるものだ、と言ってますね。ということは、光子というキャラクターの作者も万田珠実である、ということになる。それは実際そうなのでしょうが、しかし、事はそう簡単に言い切れるものなのかどうか、少し疑問です。万田さんの想像力の中に、植物のような生に惹かれるところがあったのではないでしょうか。こう言ったときにぼくの頭の中にあるのは、万田さんが以前撮ったTVドラマ『胎児教育』です。このドラマで桐生裕子演じる人妻はお腹の赤ちゃんのために何があっても平静を保とうとする。だから、彼女はビートきよし演じる強盗が家に押し入ってきても、滑稽なまでにその方針を貫こうとします。それで結局、彼女は頭がおかしくなってしまうわけですが、初めてこのドラマを見たときから気になっていることは、ビートきよしが残す奇妙な印象なのです。まず彼がどうやって家に侵入したのか、それがまったく描かれていない。桐生裕子が気づいたときには、すでに家の中にいたというふうになっている。そして、金のありかを教えられても、「私はひとりでのんびり探すのが好きなんです」と言って家の中でくつろぎだす始末。さらに、最後に金を手に入れて目的を達成しても、どういうわけだか家から去ろうとしない。「奥さん、きっといい子が生まれますよ」と言って縛られた桐生裕子の横にずっと立ちつくしている。まるで、そこに根を下ろしてしまったかのように。

『胎児教育』には原作があって、その原作に出てくる強盗はよくあるチンピラのイメージに近いものだったとか。それに比べると、ビートきよし演じる強盗はかなり奇妙です。植物的な不気味さとでもいうべきものがあって、それでもって桐生裕子を脅かしている。たしか『胎児教育』のときには、まだ万田家にはお子さんは生まれていなかったのではないですか。だとしたら、こんなふうには考えられないでしょうか。『胎児教育』のときに、万田さんは奥さんよりも先に妊娠を体験しようとした。すると、今度は珠実さんがTVドラマ『胎児教育』の中に植物のような生を読み取り、それを『UNLOVED』という形で万田さんに返した。夫婦として長い時間を一緒に暮らしているのならば(そしてシナリオを二人で書いているのならば)、こうした欲望の読み換えや交流があってもおかしくはないと思うのですが、どうなのでしょうか。それにしても、二人の間を行き来する欲望が、人間とは異なる植物のような生をめぐるものであるとしたら、これはなかなか面白いことです。

『UNLOVED』から話が少しそれてしまいました。申し訳ありません。ところで、映画を思い出そうとシナリオを読んでいて、おや?と思ったところが一つありました。それは、光子が実家のことを「市内だけどここからちょっとある。小さなお菓子屋さん」と言っているくだりです。これはぼくが映画から受けた印象と違うのです。実家と光子の住むアパートが近すぎる。ひょっとしたら、実家からリンゴが送られてくるエピソードがあるから、青森かどこかと勘違いしたのだろうか。いや、ぼくの印象では実家はもっと絶対的に離れているのです。たぶん、そう思ってしまったのは、光子がアパートの天井のことを「その天井ね。実家の天井と一緒なの」と言っているからではないでしょうか。一体、住む部屋を選ぶときに天井で選ぶなんてことがあるのだろうか。それに、住んでいる部屋の天井にたびたび目を向けて感慨にふけるなんてことがあるものだろうか。もし、自分が天井に目を向けてもの思いにふけるとしたら、それは旅先の宿でのことだ。それも決して楽しい旅ではない。仕事で旅をしてひどく疲れてしまったときではないか……。とそこまで考えて、ふと思ったことがあるのです。光子のことは難民として理解すればいいのではないか、と。彼女は難民としてこの世界に生きているから、故郷との間に容易には戻れないような距離が生じてしまい、夜ごと、天井を見つめてしまうのではないか、と。

何だか突拍子もない思いつきを書いてしまったようです。たぶん、瀋陽の事件などがあったから、難民のことを考えてしまったのでしょう。それにしても、難民が国外に出ることを決意するまでの日々はどんなものなのでしょう。もうここでは生きていけないと思うそのぎりぎりまで彼らが生きてきた生は、無限の痛みのようなもの、植物のような生であるような気がします。そして、そういう生を一度体験した者は、どこか別の、少しはましな共同体に忠誠を誓おうなどとは思わなくなるのではないか。というより、肉体が共同体そのものを拒絶してしまうのではないか。たとえば、ジョナス・メカス(映画作家)はナチスに追われてリトアニアからアメリカに逃げた難民ですね。学生のときに一度見たきりで記憶が曖昧なのですが、彼の『ロスト・ロスト・ロスト』のラストは砂漠だったような気がします。そこでメカスは自分を一粒の種にたとえて、たしかこんなナレーションを入れていました。「私を好きなところに蒔くがいい。どこに蒔かれようと、私は必ず芽を出すだろう。」たぶん、メカスには、どんなに肥沃に見える土地も虚妄でしかないのでしょう。それにしても、興味深いのはメカスが自分の意思で植物のような生を選びなおしていることです。ひょっとしたら、難民がこの世界で強くあろうとするのなら、こんなふうに屈折した道すじをたどって自分の運命を肯定するしかないのでしょうか。

ところで、『UNLOVED』の光子はどこから逃げてきた難民なのでしょうか。これはもう、未来から、としか言いようがありません。どれくらい先のことかは分からないけれど、今あるシステムが崩壊しつつある未来。映画の出だしで、勝野は光子に、能力にふさわしい転職のチャンスを与えようとしますね。そのとき、光子は「あの、勝野さんの言っているチャンスの意味がわたしにはピンとこないんです」と答えるのですが、彼女がそう言い切ってしまうのは、悲惨な未来をとうに見てしまっているからではないでしょうか。また、彼女は「自分らしさ」という語をくりかえし口にします。しかし、別のところで彼女は自分の生活について「人から見れば貧しくて平凡」だとも言っている。一体、この分かりづらい「自分らしさ」をどう理解すればいいのか。たぶん、彼女にとって、「自分らしさ」とはまず第一に、今あるシステムを拒否するという行為のことなのでしょう。なぜなら、彼女が見てしまった未来とは、新たな希望のようなものがまだ出現していない未来にちがいないからです。要するに、一見普通のドラマに見えるけれども、『UNLOVED』の中にはSF的な視点がぬけぬけと導入されていると言えるのではないでしょうか。しかし、そんなふうにリアリズムを歪めることで、逆に『UNLOVED』はリアルな何かをつかもうとしている。そこが面白いところだ、とぼくは思います。

試写会のときにもらった資料には、冒頭に万田さんと珠実さんの連名でコメントが載っていますね。そこには「光子が否定するのは、野心そのものではなく、男性社会が作り上げた『野心』という言葉です」と書いてある。けれども、ドラマの中で彼女が拒否しなければならないのは「野心」だけでしょうか。映画の後半、野心にとり憑かれた下川は光子に「俺だって男だよ。女と人並みに付き合いたいよ」と口走ります。要するに、彼は社会的に評価されれば、おのずと女にもてると信じているわけです。ということはその一方で、女性の幸せは相手の男次第という思いこみが女性の中にもある、ということになる。だから、光子は「野心」と対になっている「愛」も拒否しなければいけない。実際、『UNLOVED』の前半、勝野とのつきあいを描いたパートは、わざと典型的な「愛」の物語である『プリティ・ウーマン』をなぞってみせて、それを否定していますね。しかし、湖での勝野との別れ以後、すんなりとお話は進行しない。万田さんたちのコメントふうに言うなら、光子が否定しなくてはならないのは、愛そのものではなく、「愛」という言葉だ、ということになる。けれども、そんなことが容易にできるものでしょうか。

勝野は光子にふられた後もしつこく彼女のアパートに行く。そして、なぜ自分とつきあったのかと尋ねる。けれどもその問いは、光子に、拒絶しなければいけない「愛」という言葉を口にするように強いるものです。そこで彼女は「あなたが誘ってくれた。わたしには断る理由がなかった。それだけじゃいけないの」と素っ気なく答える。それは事実に反した表現ではないけれども、正確に事実を伝えるものでもないでしょう。だから、彼女は続けてこう言ってしまう。「言葉にするとどんどん嘘になっていく。だからもう言いたくない」。要するに、「愛」という言葉を封印したことで、彼女は自分の中にある愛そのもの、エロティックな欲望を肯定する言葉も失ってしまったわけです。もし彼女が「愛」ぬきでエロティックな欲望を語れば、そのときには、彼女は「淫乱」であると断定されてしまうでしょう。「その通り、どうせわたしは淫乱ですよ」と居直ってしまうのも一つの手だけれども、どうも彼女はそうではない道を探そうとしているようです。だから、彼女の「愛」を拒否する生き方は息苦しいものになってくる。

映画の後半、光子は下川にこう言います。「初めて会ったとき、あなたにお金貸してって頼んだとき、自分にあんなことが出来るなんて思ってもいなかった。でも、そうしたかった。あなたなら大丈夫だってすぐに感じた。自分の生活に満足してる人だってすぐに分かったの」。ここで光子はコンビニでの出会いが下川との恋の始まりだったと告げています。たしかに二人の交流はコンビニから始まったのだけれども、それが恋の始まりだと言うのは正確だろうか。光子が下川に「自分の生活に満足している人」を感じたのは、もっと前のこと、階下から下手くそなギターの音が聞こえてきたときではないか、と思うのですが、どうでしょう。けれども、彼女にはそう言うことができなかった。なぜなら、ギターの音に注意を向けさせたのは勝野だったからです。つまり、下川に惹かれだしたのと勝野に惹かれだしたのはほぼ同時ということになってしまう。もちろん、同時に二人のひとに惹かれたって問題はないのですが、「愛」と同時に「淫乱」も拒否する光子には、自分の中にあるエロティックな欲望を肯定する言葉が見つからない。だから、コンビニで出会った瞬間に仲間であることが分かったというような説明をしてしまうわけです。しかし、これは事実に反してはいないけれど、下川を十分に説得できる言葉ではない。「勝手にあんたの仲間にしないでくれよ」と言われても仕方がない。

「自分が自分でいることが何で恥ずかしいの。なんで見栄張らなくちゃいけないの?」「人から羨ましがれるような生活なんて、どうだっていいじゃない。自分らしくしていられることの方がよっぽど大事じゃない」。「野心」にとり憑かれてしまった下川に向かって光子が言ったこれらの言葉は、ぼくには圧倒的に正しく聞こえます。けれども、光子の愛が実感できない下川にしてみれば、洗脳の言葉としか思えないでしょう。だから、下川は「俺のこと、好きじゃないんだな」と尋ねずにはいられない。光子はそれに対して「好きよ」と答えるのですが、さらに言葉を続けてこう言ってしまう。「好きよ。でも、あなたの言ってる好きとは違う」。「野心」と「愛」を拒否する光子にしてみれば、できるだけ正確に言葉を選んで気持ちを伝えたことになるのだろうけれど、これでは下川はいよいよ彼女を信じることができなくなるわけです。それでついに彼は映画のタイトルを口にして部屋を出て行ってしまう。「きみは誰からも愛されない。そういう人だよ」と言って。

結局、「愛」を拒絶する一方で愛そのものを肯定しようとする光子の試みは挫折してしまったのでしょうか。映画としてのまとまりを考えるなら、挫折で終わってもいいのでしょう。最後に光子の孤独な姿が残れば、映画を見る者はそれを悲しいけれど美しいと感じるにちがいない。しかし、『UNLOVED』はそうなってはいませんね。光子の部屋を出た下川はしばらくすると戻ってきて、「俺はここにいるよ」「今度は、俺がきみを選ぶんだ」と言って光子を抱きしめる。一応ハッピーエンドなのでしょうけれど、どこかにそういう見方を拒む厳しいものがこのエンディングにはありますね。たぶん、ぼくがそう感じたのは、その前にある下川が自室でひとりで考えるシーンと関係がありそうです。まず、自室に戻った下川は横になって天井に目を向ける。それから窓辺に行き、自分の腕にのこるヤケドの痕を見つめる。このとき、彼が見つめているヤケドの痕は勝野に見せようとしたときのものとは違う性質を帯びています。それは勝野より優位に立つための手段ではなくて、単純に肉体が今ここにあるということの発見である。そして次に、「下川は台所に行き器に水を入れ、植木に水を差す。台所に戻り、もう一度水を入れる。下川の手が止まる。水が器からどんどん溢れていく。下川はそれをじっと見ている」。ぼくが一番うなってしまったのは、「水が器からどんどん溢れていく」とシナリオに書かれているところです。たしか、この部分は映画では蛇口から出る水がちょろちょろと少なくて、器から溢れだすのに時間がかかっていたはずです。植木に水をやりたいのならもっと蛇口の栓を開けばいいのに、下川はそうしない。それはたぶん、彼が自分の中にある植物のような生を実感しようとしているからではないでしょうか。そういえば、『UNLOVED』の中ではことあるごとに雨が降りますね。映画の最初のカットは雨の中に差し出された光子の手のカットでした。このとき、光子は単に出勤前に雨の降りを確認しているだけなのですが、今考えてみると、本当にそれだけの行為だったのかと思えてきます。光子は自分の手を、雨に打たれるがままになっている植物に似せようとしていたのではないでしょうか。そして、難民になる前に彼女が体験した植物のような生を思いだそうとしているのではないでしょうか。だとしたら、きっと下川は器からゆっくり溢れる水を見ているうち、未来からの難民である彼女の孤独をも理解したにちがいないのです。だから、彼が光子に言う言葉が「きみを愛している」ではなくて、「きみを選ぶ」であることは重要でしょう。それは「愛」を拒否して愛そのものを肯定しようとする困難な試みの始まりなのですから。それにしても、謎は残りますね。一体なぜ下川は、雨の中に差し出された光子の手など見てもいないのに、それを真似しようとしたのか。これはもう、愛のなせるわざなのだとでも強引に言っておきましょうか。どうも、だらだらととりとめない感想を書きつらねてしまいました。『UNLOVED』が多くの人に感動を与えることを願っていますと書いて、そろそろ筆をおくとします。

2002.5.23


井川耕一郎 プロフィール
1962年生まれ。93年からVシネマの脚本を書き始める。
主な作品に鎮西尚一『女課長の生下着 あなたを絞りたい』(94)、常本琢招『黒い下着の女教師』(96)、大工原正樹『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』(96)、山岡隆資『痴漢白書10』(98)などがある。
監督作品に、オムニバス映画『シネマ GO ラウンド』中の一本、『寝耳に水』(00)。また高橋洋、塩田明彦との共同編著、大和屋竺シナリオ集「荒野のダッチワイフ」(フィルムアート社)がある。


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