「高橋洋との往復メール」

高橋洋×万田邦敏・万田珠実

[2002年4月30日 火曜日]

高橋です。
 『UNLOVED』をめぐって、とりあえずとっかかりになるかな、という感想を書いてみます。
 それはまあ、とりもなおさず、あの舞台となったアパートでは2年後ぐらいに殺人事件が発生しているだろうということなんですが、何かあのアパートにはそういうものを感じました。上を高圧電線が走ってましたっけ? いや、たぶん走ってないと思うのですが、そういう気配を感じました。
 で、どの辺からそうなってくるかというと、思い返してみると、三上さん扮する新聞配達がやってくる場面、あの辺からのような。ドライヤーの『吸血鬼』に出てくる鎌を持った男は、アレゴリーや象徴として解釈されるだろうし、作者もそのつもりなんでしょうが、ただあれがそれでも解釈を超えて不気味なのは、何か本当にフラッとフレームに入ってきたように感じられるからなんじゃないか。で、三上さんの新聞配達もフラッと入ってくる感じなんです。死神とかに託される不吉な予兆は、案外こんなふうに、うつむいて自転車を押してるような何でもない格好で視界に入ってくるもんなんじゃないか。
 そんな風に、あの新聞配達の姿勢は何か嫌だったなと思っていると、そういえばあの感じは、ブリューゲルの絵に出てくる農民一人一人の姿にも通じるような気がしてきて、つまりは彼らの背中にべったり貼りついているのは「メメント・モリ(死を想え)」の観想、ということなんだろうか‥‥。とっかかりになりますかね。
 ではまた。

[2002年5月3日 金曜日]

万田です。
 笑いました。まったく意表をつかれました。しかし、高橋君に何かを書いてもらうということは、つまりこういうことだったわけですから、満足しています。
 「メメント・モリ」は、ぼくにとっては後藤明生です。今、明生の同名の著書のあとがきを見ると、「婦人公論」に原稿が連載されたのは1989年1月号から12月号とあります。10年以上前のことです。「メメント・モリ」という言葉をよく耳にしたのはその頃だったでしょうか。永六輔の「大往生」だか「家で死ぬこと」だか、なんかそんなものが出回ったのもその頃ですか。そっちは、ぼくは読んでいませんが。ただ、ぼくが「メメント・モリ」という言葉に触れたのは、明生の小説が最初でした。つまりたかだか10数年前ということです。しかし、当時ぼくは「メメント・モリ」についてあまり深く考えなかったようです。明生の病気についても、『メメント・モリ』を読み終えて、むしろホッと安心したくらいでした。これは明生の文体と題材の扱い方によるところも大きいと思いますが。ところが、明生は新世紀を待たずして死んでしまった。ぼくは自分の迂闊を恥じました。それで、もう一度『メメント・モリ』を読み直したのですが、しかし、それでも「メメント・モリ」それ自体には注意は向かず、ただ、明生が死んでしまったことのショックだけが尾を引きました。
 ぼくがやっと「メメント・モリ」について考え出したのは、一昨年だったか、映画美学校で井川君が梅崎春生の『桜島』を生徒に読むように勧めたことがきっかけでした。井川君は「メメント・モリ」という言葉は使いませんでしたが、『桜島』に底流する死の影について触れました。ぼくは『桜島』も他の梅崎春生も未読でしたので、生徒の手前もありましたから、さっそく読みました。『桜島』には感心しましたが、それを指摘した井川君くんの興味の中心にも興味を持ちました。彼は田中陽三についてもそういう視点から語りますね。もちろん、大和屋竺についても。これは高橋君も同じでしょうかね。というか、高橋君の方が先か。そのへんの早稲田派閥のことは立教派閥のぼくらは詳らかにしませんが。
 で、今回高橋君は当然のように「メメント・モリ」に触れたわけですね。しかし、『UNLOVED』で「メメント・モリ」は意外でした。映画美学校の遠山智子の新作短編『亀の歯』なら話はわかりやすい。彼女の前作『集い』も「メメント・モリ」だ。井川君の短編『寝耳に水』もそうだ。しかし、『UNLOVED』とは。じつは、『UNLOVED』に「メメント・モリ」があってはまずい、とさえ撮影当時は考えていたのです。主人公の光子に死の影が見えてはまずい。彼女は死とは反対の立場に身を置いていないとまずい、と考えていたのです。ところがつい先だって、『UNLOVED』の劇場公開用パンフレットに掲載するノベライズのようなものを書かされて、彼女がアパートの天井に思い入れるのは、映画ではそれが実家の天井と同じだからという理由にしたのですが、ノベライズのようなものでは、家で死んでいく人が最後に見る光景はその家の天井なのではないか、そう思い当たって彼女は何故か安心した、それ以来彼女はアパートの天井に愛着を持ってしまった、としたのです。要するに映画『UNLOVED』に欠けていた、というか意識的に欠かした「メメント・モリ」を書き加えたのです。何故そういう気分になったのか。これは自分でもよくわかりません。ただあの天井の出所は、すでにネタバレでしょうが拙作『夜の足跡』です。大城君のオリジナル脚本にはなかった部分で、ぼくが書き足しました。『夜の足跡』の主人公が、父親が死んでいく状態(主人公が殴り殺したのですが)を模倣して、父親が死の間際に見たであろう天井を自分も見る、という設定です。で、その父親を演じたのが『UNLOVED』で新聞勧誘員を演じたのと同じ三上剛史さんなわけです。となると、やはり問題は三上さんということになるんじゃないですか。いえ、何が問題かはよくわかりませんが。
[2002年5月7日 火曜日]
 高橋です。
 私設サイトに載っていたニューヨークのパブリシスト(ルシャス・バール)とのやりとりを読んでかなり驚いたというか、僕の言ってることって本当に思いきりズレてるんじゃないでしょうか。
 で、あんまりトンチンカンなことを一方的に言い続けるのもなんなので、一応、僕の解釈の前提となることを書いてみます。
これは、以前、万田さんと『愛の構造』の企画を話していた時もしきりに言っていたことですが、僕はとにかく「愛」が判らないらしい、「欲望」なら判るけど。で、「愛」を無理やり判ろうとすると、神の愛(アガペー)になってしまう。
 『UNLOVED』というタイトルを僕はだからすんなり「烙印された」というイメージで受け取ってしまう。つまりは「神の恩寵から見放された」という意味です。
 西洋人ってそういう風に受け取らないのかしら?
 僕が人間の行為としての「愛」にピンときたのは、そういえば増村の『妻は告白する』を何回目か見た時、確か「本当に人を愛したのは若尾文子だけだった」といった台詞があって、「ああ、そうか」と判った気がした。つまりは「狂気」ということですか。
 だから光子は誰も愛していない、と僕は見ました。彼女にとって重要なのは、理知の光でくまなく照らし出された理性の王国であって、それは自らを、「この世で最もクリーンな洗脳装置」にすることだった。僕はこういう反逆者がとても好きです。神の定めた法則に反逆するという、そういう形の狂気、永遠の呪われ方。
 しかし、それがもっと「狂気」としてはっきり出てきたらどうだったろうか。いや、たぶんそれは僕が『愛の構造』の企画で延々悩んで形に出来なかったことなんでしょう。僕はたとえばニコラス・レイの『大砂塵』のような、ただひたすら狂気を描こうとする映画、見ている者の感覚を異常な領域に高めてしまう映画が作りたいのです。ジョーン・クロフォードを追いつめる側のエマ(M・マッケンブリッジ)が、感情的にはもっともズタズタにされ、最後には誰からも見放され手負いの獣と化してゆく、あの異常な作劇。僕はエマが好きでたまらないのです。
 で、2年後に殺人事件っていうのも、最初は単純にラストで跪いて「洗脳の完了」を示した下川が、しかしやっぱり2年後も同じアパートに住んでること自体不穏なわけで、きっと光子は殺されるんだよな、と見た直後は思ったわけですが、今や光子が下川を殺した方が面白いですよね。で、女囚房に入って、今度は接見する弁護士を‥‥。ああ、でもそれは僕が形にできなかったことなのか‥‥。
[2002年5月9日 木曜日]
万田です。
 そのズレ方が非常に高橋君らしくて可笑しくて、前回のメールの冒頭に「笑った」と書いたのでした。ニューヨーク氏の文章は、『UNLOVED』を見て得られる反応のうち、好意的度においては特異ですが、着眼点においてはごく一般的なものだと思います。高橋君の場合は着眼点が非常に特異なので、話がどこに行くかわからないのですが、そのぶん興味を引かれ、高橋君の不思議な論の展開に期待もしました。これは、幾分かはもちろん高橋君を個人的に知っていることからくる興味であり、期待でもありますが、しかし、高橋君を個人的に知らない人たちにも興味と期待を持ってもらえるのではないだろうかとも思いました。ただそうなるためには、今回もらった文章の内容を、もう少し筋道を立てる、というか注釈していく必要があるのかもしれません。その点において、珠実が以下のような質問を列記しました。これは珠実自身が知りたがっていると同時にいくつかはぼくも聞きたいところだし、高橋君を知らない一般読者に対するエクスキューズという意味も含んでいます。ただし、以下の質問のすべてに丁寧に答えていただくには結構な時間と労力を必要とするはずで、その点が申し訳なく、お願いしていいものかどうか迷いがあります。とりあえず、珠実の質問を一読してみて下さい。それらに答えていただけるものかどうかの判断は後日またメールでやりとりするか、美学校で会ったときにでも聞かせて下さい。もちろん、どんな形であれ答えてほしいという希望はありますが。
珠実です。
 いきなり高橋さんだけが頂上へ行き着いてしまって、しかもそこへ到達するためのはしごを外されてしまい、こちらは追いつけないでいるといった心境です。
 何とか近くまで辿り着くための道筋を示していただけないでしょうか。

そのための質問。
1.神の愛(アガペー)とは、どういうものなのでしょう。現実の世界には存在しない?  肉体を伴わない? その特徴を教えて下さい。
2.光子は、具体的にはどのような点で「神の定めた法則に反逆」しているのでしょうか。
仮にその答えが「理性の王国を打ち立てようとしていること」だとして、光子は、自らが良しとする「理性の王国」で、世界を覆い尽くす野望を抱いていると理解してよろしいのでしょうか。また、そのことが何故「神の定めた法則に反逆」することになるのかも合わせてご説明下さい。
3.「本当に人を愛した若尾文子」の狂気と、自らが「この世で最もクリーンな洗脳装置」となる光子の狂気の相違点とは何でしょうか。そして、永遠に呪われているのは、後者だけなのか、あるいは両者なのか。
4.理性の王国を打ち立てることに、殺人は不可欠なものなのでしょうか。あるいはそれは、永遠に呪われることで関係してくることなのでしょうか。
5.『大砂塵』のジョン・クロフォード扮するビエンナは光子で、エマは下川という解釈でいいのでしょうか。
 再び万田です。ぼく自身の高橋君の文章についての感想を書きます。
「UNLOVED」が一種の「烙印」であるというのは、ぼくもそういうふうに捉えていました。しかし、これには珠実は反対しました。彼女には、『UNLOVED』の物語をあくまでも人間同士の話のレベルにとどめておきたいという強い願いがあるからです。「烙印」と言ったときに生じる、人間よりも高次のものの存在を彼女はこの物語に導入したくはなかったのです。ぼくは今でも「UNLOVED」を「烙印」という気持ちで捉えているし、結局映画もその線で作ってしまいましたが、そのことが未だに彼女との口論の種になっています。「烙印」を押された=神から見放された者のある種の「孤高」=「絶対的な孤独感」をぼくが光子に付与したことが、付与したいと今でも思っていることが彼女の気に入らないのです。彼女の言葉で言えば「どうして男の人ってそうなわけ」ということになります。つまり、ほんとうのところぼくも男女の愛について、とくにその感情の生々しさと人間臭さについて何もわかっていないということなのかもしれません。あるいは、そういう男女の愛を映画にするだけでは、映画は面白くならないと思っているのかもしれません。そのあたりは、きっと高橋君と共通しているのではないかと思っています。
 しかし一方で、愛を必ず狂気と結びつけなければならないとは思っていません。たしかに増村は愛よりも狂気を描いています。しかし、カール・ドライヤーの『怒りの日』の愛情過多な主人公にぼくはあまり狂気を見ませんでした(筆者注:このとき、万田は『怒りの日』と『ゲートルード』を完全に取り違えていた。そのことに気付くのは、高橋氏の返事をもらってからである。以下の文章が『怒りの日』について書かれたにしてはトンチンカンなのはそのためである)。そして、『UNLOVED』で最後に主人公が置かれる位置は、『怒りの日』の主人公の位置なのだという気持ちが脚本を書いているときにありました。『怒りの日』の主人公もまた「烙印」を押された人なのだと思います。愛情過多であるがゆえに誰からも愛されず、しかし彼女は愛情過多である自分以外の自分を見いだせず、孤独のままに老女となっていくという、そういう「烙印」の押され方です。だからといって彼女には「神」に反逆する意志があるわけではなく、「烙印」を受け入れることと引き換えに、生を全うします。おそらくそのことのうちに「絶対的な孤独感」があるのだと思います。増村の女達は果敢に神に逆らいます。だから狂気じみてくるし、時として彼女達は生を全うしません。前回のメールで、光子に「メメント・モリ」を感じさせたくはなかったと言ったのは、光子に「生」を想わせたかったからで、神に反逆するような「死」を匂わせたくなかったからです。光子があくまでも「生」を想うからこそ「烙印」が光子を孤独に誘います。光子はそのことを引き受けます。しかし、珠実は光子の孤独を下川との愛によって救済したい、救済されるべきだと思っています。「愛」によって結ばれる男女の、ある種の理想を見いだしたいということだと思います。そして高橋君にとっては、そういう光子と下川の関係が、「クリーンな洗脳装置」によって洗脳した者と洗脳された者との不穏な関係に映るということなのでしょうか。と、ここまで書いて再び迷路にはまりだした感じです。とりあえずここまでにします。
[2002年5月16日 木曜日]
高橋です。
 どう答えればいいか考えてみます。もとよりそんな整然たる思考があって、書いてるわけではないですが。

そのための質問。
1.神の愛(アガペー)とは、どういうものなのでしょう。現実の世界には存在しない?  肉体を伴わない? その特徴を教えて下さい。
 
 以前、『伝説巨神イデオン』というアニメをめぐって、そこに登場するイデなる超越的存在は神なのか否か、アニメ作家の新谷さんと論争したことがあるのですが、神だという新谷さんに対して、僕は人間がそれと指し示せるようなものは神ではあり得ず、まやかしに過ぎない、神とは人間に認識し得ぬものだと反駁し、その時、ひょっとしたら僕はもの凄く宗教的な人間なのかしらと思ったのです。ちゃんと勉強したことはありませんが、ニケアの公会議とかで異端だ正統だと狂ったように議論していたのもこのノリなのかしらと。
 僕の宗教的な発言は万事この調子で、何の裏づけもない、さまよい続けている言葉でしかないのです。で、「愛」ですが、僕はこの言葉を今までまともに(普通に人々が使うように)使ったことがないのです。日常の会話でも文章でも。あるいは子供の時分、宣教師の話を読んでいて、日本にはアガペーに相当する言葉がないので、「ご大切」と訳したと、つまり神様はおまえらのことを大切に思ってくれてるぞよと、そういうのを読んだせいで、「愛」という言葉について言語障害的になったのかも知れません。僕の思考とか文章はそもそもが言語障害の産物のように思えるのです。
 で、アガペーとは、神が一方的に人間の都合など関係なく、隕石のように降り注ぐムチャクチャのことです。生かしておいてくれるのが愛なのか、いや単なる懲罰か見世物なのか、あるいは洪水で滅ぼすのが愛なのか、人間にはまるで判らない、そういうものなんじゃないか。

2.光子は、具体的にはどのような点で「神の定めた法則に反逆」しているのでしょうか。
仮にその答えが「理性の王国を打ち立てようとしていること」だとして、光子は、自らが良しとする「理性の王国」で、世界を覆い尽くす野望を抱いていると理解してよろしいのでしょうか。また、そのことが何故「神の定めた法則に反逆」することになるのかも合わせてご説明下さい。
 人間は‥‥どうやら理性だけでは生きていけないらしい、その存在を指し示すことはできないにせよ、何か脅威的な力によって理性がうち砕かれる、その瞬間が不断に訪れ続けるタイトロープを歩いてゆくしかない。神の定めた法則とは、どうやらそういうものではないでしょうか。僕は高校を卒業したばかりの頃、人生の一瞬、一瞬がまったくのインプロヴィゼーション(即興)でしかない、そのようなメチャクチャな状態に置かれていることがどうにも理不尽で、この際、すべてを理性の力で認識し、即興ではなく、必然にしてやろうと思考実験をしてみたことがあるのです。2年間がんばりましたが無理でした。後で考えると、あれはノイローゼだったんだと思います。本人が断じて通院の必要など感じず、哲学上の実験だと思いこんでいたから助かったようなもので。で、一時期はいつ何時あの精神状態が再発するか判らず、あの頃を思い出すのもおぞましかったのです。
 だから光子はトコトン人間主義の人で、神の替わりに理性を戴いたフランス革命が地上にギロチンの地獄を現出させたように、あのアパートに地獄を生んだんだと思います。
 じゃあ人間は分を守るのが正しいのか。僕はどうもそうは思えない。やっぱり反逆者の方が面白い。僕の周囲の人々は早死に希望が多く、人生50がちょうどいいと妙に潔いのですが、僕はトコトン抵抗して長生きしたいのです。それはただ単に逆らいたいからで、理想的には吸血鬼のようになるかあるいは復活するか、してみたいものです。
 
3.「本当に人を愛した若尾文子」の狂気と、自らが「この世で最もクリーンな洗脳装置」となる光子の狂気の相違点とは何でしょうか。そして、永遠に呪われているのは、後者だけなのか、あるいは両者なのか。

 確かにこの二つの狂気は違いますね。人間に「愛」が発現するとしたら、若尾文子のような、得たいの知れぬ脅威に身をさらわれる、即ちは「狂気」のありようしかないのだろうと。彼女は人間の限界を体験しているのであり、それ故に彼女は破滅しますが、呪われたという印象はありません。神を退け、神の地位につこうとした反逆者である後者は完璧に呪われていると思います。

4.理性の王国を打ち立てることに、殺人は不可欠なものなのでしょうか。あるいはそれは、永遠に呪われることで関係してくることなのでしょうか。

 生まれた時から永遠に呪われてる奴っていると思います。そういう奴はやがて人を殺したりするかも知れませんが、殺したから呪われるわけではない。
 理性の王国をうち立ててゆくと、遅かれ早かれ「政治」の問題にぶち当たると思います。つまり「死刑」とか「テロ」とか「戦争」とか。やはり殺人に関わるのは不可避なんじゃないでしょうか。
 アパートで発生するかも知れない殺人は、僕は幾分は光子が若尾文子の方へシフトすること、人智では計り知れぬ何かに支配されてしまう瞬間を味わうことをイメージしていたのですが、光子はそこで破滅したりしない。より絶望的に堅固な王国を構築するのではないか‥‥。

5.『大砂塵』のジョン・クロフォード扮するビエンナは光子で、エマは下川という解釈でいいのでしょうか。

 いや、特に光子や下川を当てはめる考えはなく、狂気の淵にまで追いつめられる人間としてエマを引き合いに出したまでです。おそらくは自分でも説明のつかない激情にかられて、それを「政治」という形で地上に降ろしてしまうエマは、光子をよりグロテスクに怪物化した存在とも言え、かつはっきり狂気を自覚する瞬間がありながら、およそ救われるとは思えない。彼女の死骸はまるで犬のように示される。そういう意味で僕にとって最高のヒロインです。一方のビエンナは、最後の淵が迫るギリギリで高潔な振る舞いを選び取る(処刑されようとする場面で決して命乞いをしない)、「政治」と手を結ぼうとは決して思わない(それは彼女本来の資質か、エマよりもはるかに豊富な人生経験ゆえか)。この種の反逆者も当然ながらヒロイックであり、あっぱれなのですが、しかしそれはエマの醜悪さを引き立てるばかり、というのがこの劇の残酷なところです。

 ところで、先日スカパーでウィリアム・ワイラーの『コレクター』をやってました。僕にとっては『大砂塵』や『顔のない眼』と同じくらい幾度も立ち返る基本的な映画なのです。そういえば、僕はあの映画を初めて見たとき、中学生の頃、ごく素直に「愛」を受け入れていた。今回見直して、ストーカー・監禁モノの先駆であるこの映画が、しかし堂々と「純愛」を描こうとしていたことに、改めて懐の深さを感じたのでした。

 で、以上言ったようなことは全部、「どうして男の人はそうなわけ」の一言で粉砕されるかも知れないのですが、男とはいたって観念的な生き物で、常に幻想が必要であり、女を女と認識するにはサディズムの回路を通るしかない。感情の生々しさや人間臭さが、この幻想をかきたてるのではなく、醒ます方向に働くと、もはやそこに男は「女」なるものを見ない。何だ人間が入って動かしていただけかと。少なくともフィクション、映画においてはそうではないか。
 『怒りの日』のヒロインはなるほど光子に近いと思いますね。自分のことしか考えてないという点において。僕は「愛情過多」とは感じなかったんですが‥‥。むしろ、自分の快楽優先で、ウソをつくのが平気な人。で、そういう人がいよいよ最後になって、この世の仕組みを知ったんだと思います。もろもろのウソや義父を見殺しにしたこと、そういうことはやがてツケを払わせられるもんなんだと。彼女はソロバンの冷酷な音を聞いたんだと思う。で、ああ、そうだったんだと彼女は心から納得できた(それがソロバンの音だってところがいかにも実利的な彼女らしい)、そして彼女は自分地獄から解放され、火刑を受け入れてゆく、ここは光子の最後のありようの僕の解釈とは異なるんですが‥‥。
[2002年5月18日 土曜日]
珠実です。
 面倒な質問に丁寧にお答えくださって、ありがとうございます。
 今回のメールを読んで一番感じたことは、すごく基本的なところで、私の捉え方がずれているということでした。
 一つは、少なくとも私が脚本を書いている段階では、光子を理性的な人間とはまったく想定していなかったことです。 私は、大体の光子のキャラクターと、彼女が置かれる状況を決めたあと、“自分だったらどうするか”という考え方で、ずっと脚本を書いていました。そして私は自分のことを、理性的な人間だと思ったことは一度もなく、だから光子が言っていることも、理屈っぽく聞こえたとしても、あくまでもその時の感情や直感で言っていることとしか捉えていませんでした。
 例えば、「アガペーとは、神が一方的に人間の都合など関係なく、隕石のように降り注ぐムチャクチャのことです。」この部分を読んで思ったのですが、こちらの都合に関係なく、理不尽に襲いかかってくる力というイメージは、私にとっては神ではなく、“人間が作った男性優位の社会”のほうがより近い。だから光子が挑みかかっているのは神ではなく、男性優位の社会というつもりでした。それも理性ではなく、直感やおのれの感情を武器として。 私は、政治について真剣に言葉で考えたことがないので、こんなことを言うのは気が引けるのですが、むしろ日常のふとしたことで“男性優位の社会”などとということを実感することはあります。そして恐らく男性はそのことに気づいていなし、悪気もない。その現状を変えようとは思わないけれど、マイノリティであるが故に受ける制約や、背負わなければならない負担というようなものを、優位な境遇に置かれている側に知ってほしいという願望が、どうやら私にはあるようです。それゆえ私は光子に、権力や名声、あるいは自分を縛ろうとする一般的な価値観というものに対して、徹底して反抗させたかった。そんな彼女の姿が、高橋さんには反逆者として写ったと理解するのは、間違っているでしょうか。
 しかしこういった私の思惑は、脚本と演出の両方で監督の手が加わったことで、すっかり別の形に変わっていたようです。映画の中の光子は、確かに理性、あるいはイデオロギーの権化ともいえるような、そんなキャラクターになっていた。無論、そのことを失敗というつもりはなく、それはそれでいいと思っているのですが、うかつにも私は、最近までそのことに気がつかず、いろいろな感想を聞くことで、自分の抱いている光子像と、映画を見てくれた人が抱く光子像のずれに思い至るようになったのでした。
 だから高橋さんの、「人間は‥‥どうやら理性だけでは生きていけないらしい、その存在を指し示すことはできないにせよ、何か脅威的な力によって理性がうち砕かれる、その瞬間が不断に訪れ続けるタイトロープを歩いてゆくしかない。神の定めた法則とは、どうやらそういうものではないでしょうか。」という文章などを読むと、私はまったくその通りだと思うのに、映画の光子はまったくそう思っていないように見える、というようなずれが生じていると思うのです。何だか言い訳みたいですが、そんなわけで、私は自分の考えと光子の考えの、どちらの視点に立てばいいのか、すっかり混乱しています。というより、もはや私には、光子の気持ちがわからないところまでその距離は離れてしまった、と言ったほうがいいのかもしれません。

 もう一つのずれは、世界観の違いにあります。高橋さんと私の神に対するイメージで決定的に違うのは、神を自分の内に取り込むか、まったく外にあるものとして感じるか、という点にあるのではないでしょうか。
 政治と同じように、宗教に関しても、ただ、なんとなく直感的に抱いているイメージがあるだけで、真剣に考えたことがあるわけではないので、私の言葉で何か語ろうというのは、やはり手に余ります。そこで、『UNLOVED』で水飲み場の男の子として出演してくれたさちくんの言葉を、お借りしてきました。

さち、ひとりで何かが取り付いたようになって、
寝る前に話しはじめる。
「神は愛の存在なんだよ。
 宇宙は、神でできてるんだよ。
 神は、人の愛そのものなんだよ。
 だから、宇宙は、
 人の愛がないと、存在しないんだよ。
 宇宙の中に銀河系があって、
 銀河系の中に太陽系があって、
 太陽系の中に地球があって、
 地球のなかに人がいて、
 人の中に愛があって、
 愛の中に神があって、
 神の中に宇宙があって、、、、
 って、ぐるぐるまわってるんだね。」

 私は、これほどはっきりと自分の中に神を感じることはできませんが、ある種の“世界に対する信頼感”というような点で、神に対して同じようなイメージを抱いているといっていいかと思います。そしてそこが、高橋さんのおっしゃる神と、一番違っているのではないでしょうか。自分とはまったく切り離されたところに存在する絶対的な力。こういう感覚は、恐怖や不安を呼び起こすのではないですか? 私などはどういうわけだか、平たく言ってしまえば、たとえどんな時でも死ぬほど悲惨な目には合わない、という無根拠な自信をもっています。これは、幸か不幸かは客観的事実として決まるものではなく、主観の問題だ、という思いにつながっていくのですが。
 だから私にとって光子は、「トコトン人間主義の人」ではないのです。自分=人間を愛することは、神を愛することと同じであるという意味で。確かに他者から見れば傲慢なエゴイストと思われてもしかたがない面はあるでしょうが、自分の中に、自分より偉大なものの存在を感じていれば、それでいいのではないか。光子は、自分は偉大な力によって生かされているという思いを抱いているし、光子にとって下川は、そのような偉大な力、運命とか宇宙の法則とか、を象徴するような存在だった。私は脚本を書きながら、そんなふうに考えていたのでした。
(それにしても、「政治」と「宗教」とは、まさにエキュメニック新人賞とレイル・ドール賞のダブル受賞作品にふさわしい話の展開というべきでしょうか。)

以上のような“ずれ”に言及してしまうと、「男とはいたって観念的な生き物で、…」という件については、もはや私にはあれこれ言う権利はないのだろうと思います。というか、もともとその前提に立って高橋さんのお話をうかがうつもりでいたのですから、私の上記のような弁明は必要のないものだったとも思うのですが…。ついつい口をはさんでしまいました。すいません。
あとは舞台から降りて、話の続きを拝見させていただきたいと思います。
[2002年5月23日 木曜日]
万田です。
まず始めにお断りしておかなければいけないのですが、前回のメールで私は『怒りの日』と『ゲートルード』をすっかり取り違えておりました。『怒りの日』のこととして書いたことは、すべて『ゲートルード』のことなのです。だから、おそらく高橋君は何をトンチンカンなことを言ってるのか、と思ったのではないかと思います。実際、トンチンカンだったわけです。申し訳ない。
2年後に光子が下川を殺している、と高橋君が書いてあるのを読んだとき、ぼくがイメージしたのは『10番街の殺人』のラストでした。光子と下川の、あのおんぼろアパートが建て替えられることになって取り壊される。すると1階の下川の部屋のお仕入れかなんかから、行方不明になっていた下川の死体が発見される。さらに、アパートの裏手の庭を掘り起こすともう一つの白骨死体が現れる。どうやらそれは勝野の死体らしい(勝野も行方不明だったのです)。さらに数体の死体が…。それらはすべて光子が過去につきあった男達の死体だった。光子は指名手配される(光子自身も行方をくらましていたのです)。で、早朝のどこかの橋の上で光子がたたずんでいると自転車に乗ったお巡りさんがやってきて、光子に職務質問する。すると光子が表情も変えずに「私は影山光子です」と答える。お巡りさんが呆然とする。…これはこれで面白いのですが、こうなると、これはもう『UNLOVED』ではなくなるな、と思うのは、やっぱり光子は下川を殺さないとぼくが思っているからだと思います。逆に下川も光子を殺さない。何故かというと、やっぱり「愛」ということなんでしょうかね。ただし、この場合の「愛」は高橋君が書いてくれたような「神の愛」ではなくて、つまり、人の行為とは無関係に人に降り注ぐメチャクチャではなくて、人と人との間に発生するある種の関係であって、つまり、光子と下川との関係は、殺し殺されるという関係ではなくて、じつに平穏な意味での愛し愛されるという関係だということなんだろうと思います。ここでわざわざ「平穏」と言ったのは、もちろん愛し愛される関係でも、それが殺人に発展する不穏な愛し愛される関係というのがどうやらごく日常的にあるらしいからです。『UNLOVED』の場合に、そういう不穏な愛し愛される関係を、ぼくは全然考えませんでした。つまり、「狂気」に至る愛のことは考えませんでした。しかし、「理性的な愛」っていうのもそもそも矛盾がありますよね。なるほど光子は下川も勝野も愛しはしなかったということでしょうかね。あるいは二人を愛する覚悟、つまり狂気に至ることの覚悟がつかない、そういう覚悟をどこかで怖れている、光子はそういうまったく散文的な人ということなんでしょうかね。光子は「愛されない人」であると同時に、というか「愛さない人」であるゆえに「愛されない人」であるということなんでしょうかね。となると、光子が押される烙印というのは一体どういうことになってしまうのか。下川は光子に「きみはクリーンな洗脳装置の人だよ」と言えばよかったんだろうか。勝野は光子に「きみはただぼくを洗脳しようとしただけだよ」と言えばよかったんだろうか。そういえば、「愛」と「洗脳」の関係はどうなんだろうか。挫折した『愛の構造』で、精神病院にやって来る問題の患者は光子のような人だったんだろうか。あるいは、光子はやっぱり病院長なんだろうか。それともやっぱり、光子を殺した下川が病院にやって来る患者なのだろうか。『リリス』のラストのウォーレン・ビューティーの台詞、「わたしを助けて下さい」は光子の台詞なんだろうか、下川の台詞なんだろうか。それとも高橋君の罠にはまった感のある私自身の台詞なんだろうか。
高橋洋プロフィール
1959年生まれ。90年、森崎東監督のTV作品『離婚・恐婚・連婚』で脚本家としてデビュー。以降、Vシネマ、劇場公開作と活動の幅を広げつつ、様々なジャンルの作品の脚本を手がける。主な作品として、中田秀夫『女優霊』(95)、黒沢清『復讐 運命の訪問者』(96)、北川篤也『インフェルノ・蹂躙』(97)、『蛇の道』(98)、佐々木浩久『発狂する唇』(99)、『血を吸う宇宙』(01)がある。なかでも中田秀夫とのコンビによる『リング』(98)、『リング2』(99)、鶴田法男『リング0 バースディ』(00)の「リング」シリーズは大ヒットを記録。

copyright k+t manda all rights reserved.