万田宛に送られてきた『UNLOVED』に関する文章のうち、BBSに書き込むには長いものを、著者の了解を得て「投稿」として掲載しました。

 万田邦敏


「アンドロイド」vs「人間」の映画
(実は『ブレードランナー』だった!)

氏原大 (22歳 学生)

 『UNLOVED』は、ぼくには感情的な映画ではなかった。というよりも、現代における問題を比喩的に人間に置き換えて語る理論的な映画なのだろうと、思ってしまいました。その意味で感情的なんですけど。
 で、どの点が比喩なのかというと、登場人物の感情が全然変化しないという所です。
 勝野と光子の二人はまるでアンドロイドみたいに見えました。なのですが、下川はそうではない。彼だけが、二人の意思に影響されて左右に変化します。
 自分に確信を持てず、絶えず揺れ動くのが人間の本質であるとすれば、勝野も光子も人間ではなく、自身の信仰するイデオロギーというプログラムに従って行動するアンドロイドにほかなりません。そして、そのアンドロイドはプログラムが含む排他性のゆえに、異なる思想を持つアンドロイドとは行動を共にすることができません。勝野は前妻に電話して自分が「間違っていた」かどうかを確認しようとし、その間違いを合理的に解決しようとします。しかし、その後の勝野の態度に何か変化があるという訳でもないのです。同様に光子も行動に迷いなどかけらも存在しません。自分が間違う可能性をあらかじめ排除した二つの大きなイデオロギーの間で苦悩する下川こそが、この映画の主人公であり、しかもこの映画世界における唯一の「人間」なのではないでしょうか。
 下川は何かを手に入れたり、光子のように「自己」を発見したりするために生きている訳ではなく、何となく「何かになりたい」と思ったり「恋人が欲しい」と思ったりして生きています。そこには、確固とした意思も確信もありません。行動に理由が無いんです。そして下川以外の、人間に見える全ての人は実際には確固とした意思に満ちたアンドロイドなので(勝野の前妻も電話口で断定的に語るのでアンドロイドっぽい)下川は光子を受け入れることによってしか生き残ることができない。そして、妥協の余地のない半自動的存在による対立を乗り越えることができるのも人間によってなされる。そのようにイデオロギーに収斂しない人間の両価性を可能性として呈示するという、そういう映画なのではないか、と思いました。
 なので、ニーチェ以降の物語が語ってきた「神なき世界の”冬の確証”の物語としての映画」とゴダールが『映画史1b』で指摘した(そして神の死についてはミルチア・エリアーデも同様のことを言っていて、ゴダールとエリアーデが重なり合うということの発見にぼくは興奮したのですが)ような、映画としての論理的に正しい形態を『UNLOVED』は踏襲し、そこに現代の個人の感情の揺れ動きを象徴的な二人、勝野と光子という(これを父権と母性の対立ととらえることもできますが)アンドロイドに体現させ、下川の感情を表現した、とぼくは考えました。(だから、あまり恋愛映画とは思わない感じでした。)たぶん、一番リアルに自分に身近なのが下川だからだと思いますが。
 あ、もし、これを父権と母性で語るとフロイトになりますね。エディプスコンプレックスだ。つまりは、父親を排除して母と近親相姦関係に陥った男の苦悩の物語なんでしょうか。だから、光子はあんなに母親じみた言動をとるのか。いや、何だかとりとめもなくなってきました。
 しかし、どっちにしろこの映画が指し示すのは「経済的成功」も「本当の自分追求」ももはや重要ではなく、そうしたイデオロギーを全否定することによって新しい「意味」を創り出すというメッセージを含むという点で、今後の映画の大きな基盤を示していると思います。

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