「脚本を書くという巡りあわせ」

万田珠実

 私が夫と知りあったのは、大学に入って間もない二十歳前後の頃で、同時に現在やはり映画監督である黒沢清さんや塩田明彦さんとも出会うことになったのでした。これは誰もがそうでしょうが、環境の変化に伴って人間関係も一変し、私の周辺は映画一色になったのでした。とはいうものの、一番年下の女の子ということもあって、ただ好き勝手なことを言いながら、末席に居させてもらっているという感じだったでしょうが、そんな場が私はただただ楽しく、それは大学を卒業し、結婚してしばらく経って、子供ができるまで続きました。その間ずっと、勤勉な努力家というわけではない私は、そんな周囲の人たちと同じ土俵に立てるようにと努力するでもなく、かつ到底そうなれるとも思っていませんでした。いえ、本当は私も、何か表現できたらいいなと思って試してみたこともありましたが、最初に見てくれる夫の厳しい批評に耐えられるようなものではなく、すっかりやる気をなくし、いつしかそういうことは諦めてしまいました。それでも、周りにいる人たちの与えてくれる精神的な刺激は変わりなく、私にとってとても貴重なものであったと、今も思っています。

そうこうするうちにお互い年を重ね、周りの人たちは仕事が忙しくなり、こちらは子供ができたことで、以前のように集まる機会もなくなっていきました。何より、生活や環境自体がまた一変したのです。私は、一度もきちんと会社のような組織に所属することはありませんでしたが、自分のペースで仕事はしていました。それが、家と公園と幼稚園と買い物というような、自転車で移動できる距離が行動範囲という生活になりました。いまもそれはあまり変わっておらず、電車に乗るのは月に一度あるかないかといった感じです。そこで新たに知りあったのは、子供の行く幼稚園のお母さんたちでした。いわゆる“普通の専業主婦”です。
自分がそうなってみて一番に感じたことは、人から評価されることがほとんどないということでした。どこにあるのかは知らないけれど、世の中を動かしている中枢というものがあり、それに連動して動いている社会があるとして、そういう世の中の流れを形作っている組織からはじき出されてしまっているもの、それが主婦であり、そうやって社会から切り離されてしまっていることで、家族のレベル以外では、人から評価されることや省みられることが少ない存在ではないのかと思うのです。
あるいは、こんなことも考えました。社会に出て働いている人の多くは、何かしらの組織に属していることが多く、その場合自分の居場所が確保されている、守られているという安心感を手にしやすい。例えば、自信に満ちあふれた男性をよくよく見てみると、その拠り所となっているのは、どうやら名刺に刷られた会社名と肩書きであったりするのです。今は不況やリストラで、かつてほど安心はできない状況になってきているのでしょうが、それでも、そういう後ろ盾のないところで、主婦は日々の生活を送っている、といっていいのではないでしょうか。
自分のやっていることが人から評価される機会が少ないので、満足感やたち成感を得られにくいこと。社会(組織)から切り離されていて、自分の居場所が確かめにくいこと。この二点において、教育のレベルでは男女平等なのに、その先に待っているものがこれだというのは、女性にとって精神的にかなりつらいものがある。特に同性で社会的に活躍している人と自分を比べたら、自分は一体何のためにここにいるのだろうかという疑問に捕らわれたとしても無理はないし、それを忘れるために子供や夫に心血を注ぎ、完ぺきな主婦を目指す人がいても無理はないのではないか。そんなことを考えました。
しかし現実には、私の周りのお母さんたちは、そんな私の想像を超えて、ずっと生き生きとして見えました。もちろん、これは外から見ているからそう見えるだけで、程度の差こそあれ、それぞれが悩みや葛藤を少なからず抱えてはいるのでしょうが、中には本当に羨ましくなるほど無理なく自然で、なおかつ輝いている人もいるのです。あるいは、普段はそうでなくても、幼稚園の行事で活躍する場が与えられたときに、そういう部分が垣間見える人もいました。経済を中心に動いている今の日本の社会から見れば、何の利益も生み出さないような幼稚園の行事で活躍したって、と思われかねないでしょう。しかし、むしろ私には、世間から見ればたいして気にも留められないところで輝いているその姿が、とても愛しいものに感じられたのです。と同時に、彼女たちに“生きていくうえでの強さ”というものを感じました。とかく「何のために生きているのか」「生きていくことにどんな意味があるのか」というようなことをつい考え込んでしまうような今の時代に、彼女たちの存在はとても貴重なものに感じられました。以前から私は、ただ食べるために働いていた近代以前の人々の生き様を、どこか美しいものと感じているところがあったので、そこに彼女たちの姿を重ねてもいました。
そんな女性をヒロインにしたお話を作ってみたい。それが『UNLOVED』の原点となったのです。

そうはいっても、こういった私自身の思いが、単に頭の中だけに存在しているのと、脚本という形あるものになることの間には大きな飛躍が必要で、それについてはまた別の説明が必要になってくるでしょう。
一つには、ごく狭い場所に閉じこもっているような2〜3年間という時間があったことが挙げられます。先にも書いたような、ごく限られた行動範囲と、限られた人間関係、子育て中心の生活をしていると、映画や本に親しむ自分の時間も取りづらい。空間だけでなく、精神的にも狭い世界に閉じこもっていたといってよいでしょう。私の場合、夫がもともと外に出ていくのを好まないタイプだったため、余計そうだったかもしれません。しかしこれは、私たちにとってよい結果をもたらしてくれたようです。もし夫が、もっと外の世界に触れ楽しそうにしてたら、私は、なぜ自分だけ我慢しなければいけないのかという妬みに捕らわれていたでしょう。さらに、ほかにあまり人と関わることがなくなったため、夫と精神的に同じものを共有することが、以前にも増して多くなりました。というよりは、ほかに人がいない(特に映画の話題に関して)ので、私の意見を聞き、認めてくれることが多くなった、少なくとも私の主観的には、そうなっていったように感じられます。
これが私にとっては、とても大きな変化をもたらしてくれたと思います。それまでも夫がシナリオを構想するときに、意見を求められることはありましたが、私の意見は大抵にべもなく却下されることが多かったのに、夫が『死国』の脚本を書いていたころから、こちらの意見をどんどん取り入れてくれるようになったのでした。よく、「子供を育てるには誉めることが大事」と言われますが、まさにそのままだったわけです。認められ、受け入れられて初めて発揮できる力もある、ということでしょうか。
もう一つ、私にとって重要な要素となったのは、古くからの同性の友人でした。先にもし夫を通してのみ外の世界を垣間見なければならなかったら、妬みが先に立っていただろうと書きましたが、彼女たちからもたらされる外の情報は、実に素直に私の糧となったのです。自分では体験することができない事柄を、その考え方や人柄をよく知っている友人から聞いて追体験することができました。私だったらこう考えるとか、こうするんじゃないかと考える一方で、彼女やその周りの人たちの気持ちを想像したり、その人の身になって感じてみたりと、ある種の頭の訓練のようなことをしていました。しかしそれは、単に面白半分に話を聞いていたのではなく、文字通り“自分のこと”として受けとめていたのでした。それはもちろん、その友人が自分にとってとても大切な人だったからでもありますが、いわゆる大人同士の複雑な感情のやり取りに乏しいという、ある種の無菌状態に私が置かれていたことも、影響していたかもしれません。
この限られた時空間の生活のおかげで私は、周りに影響されることなく、自分の価値観(思い、考え、望んでいること)を以前よりはっきりと再認識できたように思います。このことが、今までと同じように夫から「何かいいアイディアはない?」と言われたときに、それまで内側にため込んでいたものを迷わず出せるまでに、私を変えてくれたのだと思います。
そして『UNLOVED』の時には、更に重要な人物の助けがありました。それが仙頭プロデューサーです。何を隠そう、夫は当初この企画を気に入っておらず、最初に認めてくれたのは仙頭さんでした。夫が認めてくれるより前に、外の世界の側から認められるということは、私にとってとても大きな意味をもっていました。普段あまり省みられることのない平凡な人にスポットライトを当てたいという、もともとあった私の思いは、こうしてまず仙頭さんという外の世界の代表者によって、光を当てられるきっかけを与えられたのでした。このような機会を与えてくれた仙頭さんに今更ながら感謝しつつも、一方で、本来ならば周りのお母さんたちの中には、私などよりよほど優秀な人がいるのに、彼女たちは単にそういう機会に恵まれなかっただけではないかという割り切れない思いは、未だ抱いてもいるのですが。
一旦作業が始まってからは、私はただひたすら、自分の内にたまっているものを吐きだしているだけだったような気がします。それを人に見せられるように、形にしていってくれたのは夫でした。ほかの人にはなかなか恥ずかしくて見せられないようなものを見せ、なおかつ形を整える手助けするという大きな役割を任せられるのは、やはり夫のほかにはいません。というわけで、今更言うまでもないですが、やはり大変感謝しております。

長々と書いてしまいましたが、私は普段から、あらゆることは関連をもっていると思っているところがあって、あれとこれ、というふうに区別してものごとを捉えられないため、こんなふうになってしまいました。私は人生の中で、自分の意思で決めたことなんて実は些細な部分だけで、あとは何かもっと大きな力、法則(何と言ったらいいんでしょう)のようなもの、その波に乗れるか乗れないかで決まっていくような気がするのです。あらかじめ運命が決まっているというのとは違うのですが、自分に起こるあらゆる出来事は、その場限りの意味しかない偶然の出来事の連続ではなく、すべてはつながりをもって意味をなしている必然、とでも言えばいいでしょうか。映画に興味をもち、夫を始めいろいろな人と出会い、そして今回『UNLOVED』という脚本を書くということに巡りあった。そのことを何か不思議に思うと同時に、このような巡り合わせを与えてくれた何かに、私は深く感謝しています。

『UNLOVED』の感想に寄せて

※ 以下の文章は、Shes.netの特別試写会をご覧になった方々からの感想を受けて書かれた文章です。
http://www.shes.net/shes_a.cgi?file=interview/2002/0517/interview.html

『UNLOVED』をご覧になってくださった皆様、本当にありがとうございました。脚本を書くという形で自分自身を表現できたこと、そしてそれをたくさんの方に見ていただけることの幸せ。私はなんて恵まれているのだろうと、改めて実感しております。
 なかでも感想を寄せてくださった方々に、感謝の気持ちをお伝えしたいと同時に、私の感想のようなものを少し書かせていただこうと思います。

 私たちが脚本を書いているときに一番心配したのは、光子が向上心のない人に見える、ということでした。なぜこうなったかというと、前に書いたこととも関連しますが、私自身の、男性優位の社会に疑問を投げ掛けたい、という思いに端を発しています。
 例えば…。小さな子供がいると、お母さんはなかなか自由に自分の時間を使えません。それに比べると夫は、たまに友人と飲んでくることもある。「だったら私だって」と妻が言うと、この夫は大変理解のある人で、「どうぞいってらっしゃい」と快く送りだしてくれる。いざ出掛けようとして玄関で妻は、「じゃあ、すいませんけど、あとよろしくお願いしますね」。そこではたと気がつくのです。仕事で出掛けるときはともかく、夫は自分の時間を過ごすときに、「悪いけど、子供や家のこと頼むね」なんて思うかしら、と。そして妻は、せっかく自由な時間を与えられたというのに、なんとなく子供や夫に申し訳ないという気持ちで、心から楽しめないまま家に帰っていくのでした。
昔に比べたら男女平等だとか、男性も家事や育児に協力している現代だからこそ、このような違いに気がついて、自分自身に如何に不平等な価値観が根づいているかということに驚かされます。だからといって、男性を非難したり、女性優位の社会に変えていきたいと考えているわけでは、まったくありません。ただ、今の日本の社会は、男性が男性のために作った仕組みでできているということを、ちょっぴり意識してもらいたかった。女性は誰しも、多かれ少なかれ実生活のなかでふとそのことに気づかされる経験をしているのではないかと思うのですが、男性はまず気づくことはないだろうと思うからです。そのうえ、皮肉なことに男女平等を実践している人ほど、余計に気づきにくいのではないでしょうか。
そこで私は、会社や組織のなかで出世していくということを、この男性中心の社会が作ったルールに従うことだと位置づけ、光子にはこのルールに反抗させようと思ったのでした。決して声高にではなく、あくまでも普通の一女性として。そのために、彼女がしていることは、向上心や欲が何もない人のように見えてしまうのですが、私としては、あくまでも今の日本社会でよいとされているもの、誰もが望むようなもの(地位とかお金とか)を否定することで、それだけが唯一のルールではないはず、と言いたかったのでした。
この、光子=いまの社会に対する反逆者という設定は、シナリオができてくるにつれてどんどんと強度を増し、あのように極端に強いキャラクターが出来上がったともいえると思います。これではまるで、恋愛映画の主人公にはふさわしくありませんよね。皆さんの感想を読んでいて、改めてそのことを感じました。
Keikoさんの感想に、「光子はどっちかというと悲しい生き方を選びがちな性質だと思う。見ていてイライラしたくらい。わたし的にはそれは損に思える。」とありましたが、これはまさしく上のような理由によるのだと思います。そしてnaomiさんの「最後に誰とも一緒になれなかったら、救いようのない光子だし、誰かと一緒に生活することで光子の生き方も光るように思える。」という感想、私もまったく同じように思ったのですよ。だからラストをあのようにしたかった。映画の流れとしては無理があるとわかっていても、です。それでもやはり、光子という人とその生き方は、社会に対する反逆者という役割を与えられてしまったがゆえに、やはり「愛されざる者」なのだろうとも思います。
ただ、確かに光子には、他者から見れば傲慢なエゴイストと思われてもしかたがない面はあるでしょうが、自分の中に、自分より偉大なものの存在を感じていれば、それでいいのではないか、と私は考えていました。光子は自分の思ったことを、あまりにも正直に相手にぶつけてしまいますが、彼女は心の中では、自分は何か大きな力によって生かされている、こんな自分でも存在することを許されているという思いと、そのことに対する感謝の気持ちをもっているのです。そして、光子にとって下川は、そのような偉大な力、運命や宇宙の法則というようなものを象徴するような存在なのだと、私は脚本を書きながら考えていました。そして、監督の思惑は別にあったとしても、私にとっては、彼が最後にとった行動は、そんな光子に対しての、世界が与えた受容のようなものであったのです。

最後に。
ここに書かれたことは、どれも一つだけの正解などではありません。あれこれと書いてはみましたが、やはりこれは『UNLOVED』という映画に対して一つの側面を語ったに過ぎません。それほど私は、一本の脚本に、一度にいろいろな思いを詰め込みすぎたともいえます。あるいは、あらゆるものごとには常にいろいろな側面がある、ともいえるでしょう。これは光子のセリフにも当てはまるのですが、私の言っていることが私の思っていることのすべてではない、こんなことを言いながらも、同時にまったく別の(時には矛盾するような)思いも心の中に抱いている、というのが、いまの私のいちばん正直な気持ちかもしれません。
そしてもちろん、映画をご覧になった人それぞれに、また違った『UNLOVED』が存在するのだと思います。


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