『愛されざる者』 万田邦敏+珠実            影山光子は東京郊外の市役所に勤めている。地元の高校を卒業してからだから十四年になる。十四年の 間に何回か担当の課を変わったが、いずれも本人が希望してのことではない。光子は上司の受けがいいほ うではなかったから、光子をどうしても手元に残しておきたいと思う上司はいなかったし、光子のほうで もどうしても同じ課にとどまりたいという執着もなかった。光子はどの課に回されても自分のやるべき仕 事を見つけだし、それに満足することができたのだった。今はリサイクル課にいて、一日のほとんどの時 間をコンピューターのデータベース作りに費やしていた。  同じ市内で小さな菓子店を営んでいる実家を二十三のときに出て、以来市役所そばのアパートに独り住 まいしている。それは二階建ての木造アパートで、住み始めたころすでにもう古ぼけたアパートだったが、 周囲に建つ似たような古ぼけたアパートが次々と立て替えられ新しくなっていくなかで、いまではそのア パートだけがまるで時代に取り残されたような奇妙な違和感を周囲の景観に与えていた。  役所の同僚が一度遊びに来たことがあったが、その女性がアパートを見てまっさきに思ったことは、な るほど光子に似つかわしいアパートだということだった。彼女は直接それを光子に言わなかったが、ある とき光子のいない役所仲間の宴席で、少々意地悪く皆にそのアパートの話をした。そんなふうに光子を皮 肉ることが同僚に受けることを承知していたからだ。上司の受けが悪かったのと同様に、光子はそんなふ うに同僚からも思われていたのである。  光子は格別そのアパートが気に入っているわけではなかった。ただ、引っ越しをすると寝つけなくなる のではないかという不安があった。光子は、普段から寝つきのいいほうではない。眠らなければいけない と焦れば焦るほど、目が冴えてきてしまうという質だった。そんなときは布団に仰向けになったまま、じ っと天井を見つめていた。光子の部屋は二階だったから、天井の上には空が広がっているのだが、光子は 夜の空を思い描いてあれこれと想像を巡らすというようなロマンチックな趣味を持ち合わせなかった。た だ一度、ぼんやりと天井を見つめていて、家の中で死んでいくひとが最後に見るものはその家の天井なの ではないかと思い当たって、はっとしたことがある。自分はそのときになってこの天井を見つめるのだろ うか。そう思ったとき、光子はここが自分の居場所なのだと実感した。  市役所へは自転車に乗っていく。  その日は雨だったから雨ガッパを頭からすっぽりとかぶった。スーパーで買った安物の雨ガッパだから、 あまり格好はよくない。しかし、光子はそれを恥ずかしいとは思わなかった。  デスクのコンピューターを起動した光子を上司の後藤が眼鏡の奥から覗いていた。後藤は光子がいつま でも上級試験を受けないことに困惑していた。上級試験に受からなければ昇進できない。光子より若い女 性職員がさっさと試験に合格して、光子より格が上がっていくことが上司としてやりにくかったし、何よ り光子自身にとって愉快なことではないだろうと後藤は思っていた。光子にそれだけの実力があることは 後藤も知っているのである。だから、十四年間も勤めていて光子がいっこうに昇進を望まないのが不思議 だった。しかし、後藤はその不思議をなんとか理解しようとは思わなかった。光子自身のうちに、他人の そういう好意を拒むふうがあったからである。それはいわゆる光子の取っつきにくさの印象だった。後藤 に限らず光子を知っている役所の職員はみな、それが光子の性格を表現する最も適した言葉であると思っ ていた。  たしかに、光子は感情を表に出すのが苦手だった。楽しいときには楽しそうに、悲しいときには悲しそ うに、そういう表情や仕草が自然に表に表れてこなかった。女性にとってそういう表情や仕草が表現でき ないことは、とくに男性から見て、光子がたとえ三十を越しているとはいえ女性としての華やかさをまる でもっていないということだった。  男がそういうふうに女を見るということを光子が初めて感じたのは、高校で同じクラスの男子生徒に好 意をもってからだった。光子はその男子生徒の気を引こうとして、無理に笑ったり、はしゃいだりしてみ せたが、それが相手にぎこちないものとして映っていることは明らかだったし、何よりも自分自身でぎこ ちなく、恥ずかしかった。やがて、そんなふうに無駄な努力をしていることが馬鹿らしくなった。男子生 徒との恋は破れたが、光子はあまり悲しまなかった。  いまでは光子の取っつきにくさは板についているといってよかったし、同姓異性に限らず、自分がひと からそう思われることを光子は分相応とさえ思っていた。ひとが自分にどんなレッテルを貼るかはそのひ との勝手なのだとも思っていた。光子はそのことにひとつも不満を感じていなかった。感情を自然に表現 できるひと、とくにそういう女性を羨んでいたわけでもない。といって、わざと取っつきにくい女を演じ ているわけでもない。光子は、そういう自分が自然の自分なのだと思っていただけだ。結局、光子はある 時期から自分の居場所というものを見定めるようになっていたのである。  妙な言い方だが、光子はまったく自然に取っつきにくい女性だった。そして、その自然さが、じつは光 子の強さだった。しかし、その強さを理解するものはいなかったし、光子自身もまだそのことに気付いて はいなかった。  いまも光子のデスクにやってきた上司の後藤から上級試験のことを催促されると、光子は表情を変えず に「私は受けません」と答えたのだった。後藤はそれ以上光子を追及する気になれなかった。  そのとき、受付のカウンターで若い女性職員が甲斐甲斐しく訪問者に応対する声が聞こえてきた。  訪問者は勝野英二という男で、このところ月に二、三度は光子の課にやってきた。勝野は、市と市が誘 致した有名私立大学と大手企業とが共同で開発を進めている大掛かりなリサイクルシステムのソフトウ ェア開発を請け負った、ベンチャー企業の社長だった。三十なかば過ぎの、見た目もなかなか魅力的な男 性だったし、二年前に離婚していまは独り身であることも、いつの間にか課の噂の種になっていたから、 若い女性職員たちは勝野がやってくるのを秘かに心待ちしていたほどだった。勝野も課にやってくれば、 だれかれとなく気さくに挨拶をしたし、軽い世間話もした。ベンチャービジネスの起業家といえば必要以 上の意志の強さと自信の強さが、なかば演技で、なかば自然に表に表れるものだが、勝野にはそういった ふうが見られず、課の若い女性職員となれなれしく話をしたりするのにも嫌みを感じさせないのは、勝野 の育ちのよさを表していた。  光子は、一度、後藤の指示で勝野のために市のリサイクルシステムの現況リポートを作成したことがあ る。そのとき勝野は光子に紹介された。愛想笑いひとつ示さず勝野にリポートを手渡す光子に、勝野は少 し驚いた。しかしすぐに、その無愛想が、ある種の羞恥からくる防衛の仕草にすぎないと勝野は勝手に決 めこんでしまった。  自分が男性的な魅力に富んでいることを十分自覚している勝野には、どんな女性も初対面で自分に好意 をもつはずだという自信がいつの間にか身についてしまっていたから、勝野が光子の無愛想を羞恥からく る臆病と判断したのも無理はなかった。しかし、勝野が都内の自分の会社に戻ってそのリポートを見てみ ると、勝野が知りたかったことがあまりにも要領よくまとめられているので勝野はもう一度驚いた。光子 の無愛想さが逆に頼もしく思いだされて、勝野は苦笑した。  ひとを仕事上の能力で区別するのは勝野のような男の自然な反応だが、この場合、そこにそれ以上の意 味があったことに勝野はずいぶん後になって気が付いた。しかし、やがて後藤との打ち合わせで会議室に 消えてしまう勝野と、コンピューターに向かっていることの多い光子とが、会話を交わす機会はその後な かった。  その日も、光子は、光子のデスクを離れて頭を下げながら勝野がいる受付カウンターのほうへ去ってい く後藤を見送りもせず、コンピューターのキーボードを叩き始めたのだった。勝野は、近づいてくる後藤 の奥で、光子が自分に少しも視線を送らないのをもの足りなく思ったが、後藤との打ち合わせが始まって しまえば、もう光子のことは忘れていた。    それからしばらくして、勝野が再び市役所を訪れてみると、課内に光子の姿がなかった。勝野は、にこ やかに応対する若い女性職員に、もう少しで「影山さんは」と聞こうとしている自分に気が付いて驚いて しまった。だから、打ち合わせが終わって市役所の出入口がある広いフロアを横切る途中で、唐突に光子 の屈託のない笑い声を耳にしたとき、勝野が決定的に光子を意識したのは無理もないことだった。  明るい女性の笑い声に思わずふり返ると、そこに光子がいたのである。そこに、といってもふたりの距 離は十メートル以上離れていた。  市役所にあわただしく出入りするひとびとの向こうで、光子はひとりの男の子の前にひざまずき、その 子に何やら語りかけていた。知り合いの子ではなさそうだった。男の子はときどきしゃくりあげているよ うだから、迷子だろうか。しかし、光子の笑い声に誘われて男の子はしゃくり上げながら笑っていた。そ の必死の表情が、勝野にはほほ笑ましかった。  光子は自分が声を立てて笑ったことを周囲に恥じるようだったが、顔にはまだ笑顔が残っていた。それ は迷子の男の子の恐怖を解いてやろうという大人の気遣いから出る笑顔というよりも、光子自身が心底何 事かを可笑しがっているという素直な笑顔だった。勝野は光子の内面の秘密に触れたような気がしてその まま光子に歩み寄り、話しかけることを憚った。いつもの勝野なら、なんのためらいもなく光子に語りか けていたはずなのである。  都内に戻る車中で、勝野は自分の気持ちが高揚していることを意識して苦笑した。およそ男女が好き合 うきっかけは謎である。    勝野が勤め帰りの光子を誘って市役所そばの喫茶店で話をしたのは、それから間もなくのことだった。 光子にとって勝野の誘いは唐突だった。しかし、光子はそれを断らなかった。断る理由がなかったからで ある。  初め、勝野は光子に自分の会社に来るつもりはないかと聞いた。これは光子を喫茶店に誘う口実という わけではなく、勝野の気持ちに嘘はなかった。しかし、光子はその申し出を躊躇なく断った。その躊躇の なさを勝野は不思議に思った。才能ある女性が市役所の片隅で、その才能を埋もれさせようとしている。 そのことを光子は自分自身で惜しいと思わないのだろうか。都会に出て、いまよりはよほど華やかな場所 で自分の可能性を試そうとは思わないのだろうか。これは、光子の上司が光子に思ったこととだいたい同 じことである。しかし、いまの勝野はそういう光子の不思議を理解したいと思っていた。そこが上司と違 っていた。 「何故」 と勝野は光子に聞いた。 「仕事ってただ働くことだって、単純に考えちゃいけないんでしょうか」 勝野は虚を突かれた。すぐに言葉が返せなかった。光子は勝野の目を見て言葉を継いだ。 「誰にでもできるような仕事をすることは、いけないことなんでしょうか。わたしは、それで十分なんで す。誰もが自分にしかできないことを見つけだして、それを仕事にしなきゃいけないとは思えないんです。 実際、そうじゃないひとのほうが多いと思いますし。わたしはいまのままでいいんです」 光子は普段考えていたことを素直に語っただけである。しかし、これは大げさにいえば勝野に対する挑戦 だったはずだ。事実、光子は知る由もなかったが、勝野がサラリーマン生活を捨て、ベンチャービジネス を起業する決心をしたとき、いま光子が語ったことと正反対のことを勝野は自分の信念として妻に語り、 妻を説得したのだ。しかしいま、勝野は光子に反論しなかった。光子の言葉の意味を深く解釈する以前に、 物怖じしない光子の態度の素直さに、ただ打たれた。  いっぽう、そう語った光子も、勝野の前で普段考えていることがすらすらと口をついて出てきたことを 自分ながら少し不思議に感じていた。勝野という男が、自分の警戒心を解いていると感じないわけにはい かなかった。 「でも、諦めたわけではありませんよ」 と勝野は言って、ふと覚悟の表情が顔に浮かんだ。 「また、会ってくれますか」 「ええ」 光子の返事を聞いて、勝野はそれまでぜんぜん口をつけていなかったコーヒーを一気に飲み干した。それ は光子の気を引こうとする演技ではなかったから、その子供っぽい仕草に光子は思わず表情を和らげるこ とができた。  光子が勝野と別れ、駅前の小さなスーパーで二、三日分の食料を買い込んでアパートに戻ってみると、 そこに引っ越しのトラックが止まっていた。ああ、また誰か部屋を出ていくのだと光子は思った。  アパートは一、二階合わせて六室あったが、そのうちの二室はもうずいぶん前から空き部屋のままだっ た。そのうちのひとつが、光子の部屋の真下だった。ところが、その部屋に明かりがついていることに光 子はやっと気が付いた。階段の上り口はちょうどその部屋のドアの前だったから、光子が買い物袋を下げ て階段を上ろうとしたとき、その部屋から飛びだしてきたひとりの若者と危うくぶつかりそうになった。 若者は、あっと小さく声を上げた。二十七、八の、風采の上がらない若者だった。光子は軽く頭を下げて 階段を上っていった。若者もあわてて頭を下げたが、相手はすでに後ろ姿だったから、若者には決まりの 悪さだけが残ってしまった。若者はトラックに戻り、引っ越しの作業を続けた。周りにいくらも小奇麗な アパートが並んでいるから、下の部屋はもうずっと空き家のままだろうと思っていた光子は、夕食の準備 をしながら、時折がたごという階下の音を聞いていた。             勝野が市役所に打ち合わせに来たときはいつも、仕事がひけた光子と、最初に話をした喫茶店で会うく らいにふたりは親しくなっていた。とはいえ、光子の不思議な取っつきにくさは相変わらずだった。  勝野は光子と話していて、光子が勝野と一緒にいることを一体どれほど楽しんでいるのか、ふとわから なくなることがあった。そんなとき、勝野は光子に対して弱気になっている自分に気が付いた。女性を前 にして、そんな感情を勝野はもう久しくもったことがなかったから、勝野はそれを可笑しくも感じ、苛立 たしくも感じた。しかも相手は、おそらく男性経験に乏しい未婚の女性だ。  じつは、勝野には光子をそのような観点から眺める意識が最初からあったし、光子の取っつきにくさを 思えば、光子に誰か決まった相手がいないと確信して、勝野は光子に声をかけたのだった。だから、勝野 の心のうちに女性に対する男性の身勝手な征服欲が最初からずっと存在していたことは否定できないし、 それを勝野のずるさと非難することもできる。  しかし、それが非難されるとすれば、同時に光子の心のうちをも覗かなければ公平さを欠くということ にならないだろうか。そして本人同士がそれを覗きあわなければならないとしたら、そのときは、ふたり が再び他人同士となる危険をはらんでいるときなのではないだろうか。  光子は、勝野と数回会ううちに、勝野がときどき苛立たしげになることにすでに気が付いていた。勝野 には確信がもてなかったが、光子は勝野といて楽しいのである。ただ、それがなかなか表に表れないのだ。 しかし光子は、勝野が光子の反応にとまどっていると感じはしても、勝野の不安を解いてやるために自分 に似合わぬ振る舞いをすることはできなかった。そうすれば勝野が安心し、より強く自分を愛するように なるとわかっていても、光子にとってそういう振る舞いは自分に相応しからぬことだった。ひとから嫌わ れることを怖れ、ひとから嫌われないために何かをする、そういうことが、もう光子にはなくなっていた。  だから、勝野を喜ばせる振る舞いができないことを光子はもどかしく思ったりしなかったし、勝野に申 し訳ないとも思わなかった。勝野に打ち解けているからこそ普段の自分でいることが許されるのだと、光 子は思っていた。光子は、それほど強い自分自身をいつの頃からか育て上げていたのである。  勝野の市役所での仕事が一段落し、もう当分勝野が市役所を訪れることもなくなるという日、ふたりは いつものように喫茶店で会い、別の店で夕食をとった。食事の後、光子は勝野をアパートの自分の部屋に 誘った。光子の部屋で、ふたりは初めて肉体的に結ばれた。  光子が勝野を部屋に誘ったとき、そうすることが勝野を喜ばせることだという思いは、少なくとも光子 の意識にはなかった。アパートの近くで夕食をとり、気持ちがほぐれ、勝野がもう当分市役所に来ないの なら、自分の部屋で、ふたりで安心してくつろぎたいと願ったのだ。だから、光子は勝野と肉体的に結ば れることをとくに求めたのではない。しかし、勝野がそれを求めれば素直に応じる気持ちの準備はできて いた。いくら光子とはいえ、そういう男女の経験はあった。  しかし、光子のほうから部屋に誘ったということが勝野の心に余裕を与えた。勝野は自分の腕の中にあ る光子の裸の肉体に、光子の不思議な取っつきにくさの代償を知らず知らずのうちに求めていた。光子も また、それを勝野に求めているのだと勝野は思った。とかく男は、女の肉体を愛の保証としたがるものだ が、勝野もその例外でなかった。だから光子がうすく声を漏らして勝野の愛撫に応えたことは、勝野をお おいに満足させた。  勝野が帰って、深夜に床についた光子は、いつものようにぼんやりと天井を見つめていたが、この日は やがてすぐに静かな寝息を立てはじめた。  光子が穏やかに眠りについた頃、なかなか寝つかれないでいたのは勝野のほうだった。ベッドの中で目 をつむっていると、自分と光子のこれからのことが様々な映像となってまぶたの裏に浮かんできた。その 中にはまったく馬鹿らしいものもあったから、勝野はもうそんなことを考えるのはやめようと思うのだが、 いつの間にかまた別の映像が現れては消え、現れては消えた。しかし、それらの思いに共通していたのは、 勝野が常に光子の優位に立っているということだった。勝野が真面目に光子との事を考えていただけに、 これはやっかいなことだった。    勝野が光子の勤める市役所に行かなくなると、ふたりは休日を都内で過ごし、夜、勝野は光子を自分の 住むマンションに誘った。光子はたいていその誘いに従ったが、ときどき浮かない表情を見せることがあ った。勝野は、それを光子の例の無愛想と解釈した。  しかし勝野は、そのような光子の取っつきにくさに以前感じた苛立ちをもう感じなくなっていた。それ が、愛の保証として光子の肉体を手に入れたつもりの勝野に与えた効果だった。  勝野は、素直に感情を表せない光子の性格、取っつきにくい光子の印象の不思議にひとつの解答を与え ていたのだ。それは一言でいえば、光子の生まれ育った環境と、光子がこれまで置かれてきた境遇という ことになる。  東京郊外の小さな菓子店に生まれ育ち、公立高校を卒業してすぐに地元の市役所に勤めだし、十四年の 間昇進もせずに、上司からも同僚からも疎まれてきた光子という女性の育ちと境遇。ひとから愛されるこ との少なかった孤独で寂しい生活。それらは、衣食住に恵まれた生まれと育ち、望むものを苦もなく手に 入れることができた境遇、必ずひとから好感をもたれるひととなり、そういった勝野の生まれ育ち、これ まで置かれてきた境遇と、あまりにかけ離れていた。  光子と肉体の関係ができてから、勝野はそのことを考えてふと光子を哀れに思うことさえあった。勝野 は、これまで光子に縁のなかったような華やかな場所や高級で贅沢な場所に光子を連れだすようになった。 ブランド物の衣服を買い与えたりもした。ベッドの中では必要以上に光子を悦ばせようとさえした。そう することが、光子に対する愛情の証であることを、勝野はもはや疑わなかった。  しかしこれは、自分を光子の救済者になぞらえることに等しかったから、結局、勝野は身勝手に自分の 虚栄心を満足させたかったに過ぎない。育ちの善し悪しの判断は、必ず育ちがいいと思っているものから 下されるものなのだ。  それに勝野は、いまではすっかり忘れていた。初めて光子を喫茶店に誘ったとき、光子が語った素直な 光子の気持ちを。そのときの光子に感じた自分の素直な感情を。  光子は勝野に連れられていく華やかな場所や買い与えられるブランド物の衣服に、ただ違和感を感じる ばかりだった。そういう場所にいるとき、どこにも自分の居場所が見つからないことがつらかった。高級 な衣服そのものが悪いとは思わない。しかし、それは自分が着る服とは思えなかった。  たしかに光子のこれまでの生活は、はた目には孤独で寂しいものだったかもしれない。しかし、光子自 身はそれを孤独だとも寂しいとも思っていなかった。光子は自分と他人の境遇を比較して、他人を羨むこ とも、嫉むこともしなかった。これはひとの心理として珍しいことだったが、それが光子の強さであり、 美徳だった。  光子は勝野との境遇の違いをつきあう前から感じていたし、つきあいだしてからはいよいよそれを感じ ないわけにはいかなかった。しかし、そのこと自体は光子にとってどうでもいいことだったのである。  しかし勝野が光子を、勝野のいる場所に引き入れる、引き入れるのならまだしも、勝野はそれを引き上 げることだと考えているのではないか、そして、それが光子の幸せに通じると思っているのではないかと いう疑いがすでに光子の心のうちに芽生えてしまったとしたら、そのとき光子は、見定めた自分の居場所 にこれまで以上に固執しないわけにはいかないだろう。  勝野とつきあいだしたのは、勝野の境遇に憧れたからではない。三十を過ぎた未婚女性の虚栄心から、 恋人をもちたいと願ったわけでもない。光子は覚えていた。初めてふたりでお茶を飲んだとき、自分が勝 野の前で素直な気持ちでいられたことを。勝野がそれを受け入れてくれたことを。  それが、いつからか違ってきた。  勝野が自分と肉体の関係をもったときからだろうかと気が付いて、光子は辛かった。勝野の愛撫が最近 濃くなっていることにも思い当たった。光子は男性の欲望のあり方と女性のそれとの違いをきちんとわき まえていたから、これまで勝野の要求をあからさまに拒絶しはしなかった。しかし光子は、勝野が光子の 精神を征服するために、光子の肉体を征服しようとしているのではないかと思って恐ろしくなった。  勝野は、ついにそんな光子の気持ちを察することができなかった。勝野は、光子が勝野とつきあうこと で、光子が勝野に相応しい女性に変身しつつあること、光子がそれを怖れながらも喜んでいることを疑わ なかった。だから光子が、ある週末に、勝野が買い与えた衣服を着ずに、以前から着ていた光子自身の地 味な服装で待ち合わせの場所に現れたとき、勝野はまったく事態が飲み込めなかった。しかも、その夜予 約を取ってあるレストランにその服装で行くわけにはいかない。 「この服じゃないと、わたし、落ち着けない」と光子は言った。  勝野は唖然とし、やがて腹を立てた。勝野はその日の予定をすべて諦め、光子を自宅のマンションに連 れていった。光子は逆らわなかった。  勝野の部屋で気まずい沈黙があり、やがて勝野が口を開いた。 「きみに、こうなって欲しいって思っちゃ、いけないの」 「自然にできることなら、わたしだってそうするけど」 これは光子の精一杯の答えだった。いまや光子には、勝野が言う「こうなって欲しい」ということの意味 がはっきりとわかった。勝野は光子のいる場所を否定している。光子自身をも否定している。勝野は、い ま勝野の目の前にいる光子ではなく、勝野が望む、勝野が自分に相応しいと思える光子を求めている。  勝野に悪意がないことは光子にもわかる。しかし、そのことが余計に事態を膠着させていた。光子は黙 った。勝野は、光子のただ一言を苛立たしげに待っていたのだ。それは、「ごめんなさい」という光子の 一言だ。しかし、その一言はついに聞かれなかった。 「あの、帰ります」 光子は静かに立ち上がり、玄関に去った。勝野は見送らなかった。    光子が勝野に別れを告げたのは、それから間もなくのことだった。 「わたしとあなたとは、住んでいる世界が違う」 と光子は言った。 「いままではそうだったかもしれない。でも、これからは違う。ぼくが変えてみせる」 と勝野は言った。勝野は自分を救済者になぞらえる思いから抜けだせなかった。だから、光子が勝野の眼 から視線を外さずに、 「わたしがあなたの世界に住むの? それとも、あなたがわたしの世界に住むの?」 と真剣に問うたとき、勝野には、その真剣さの意味がまるで理解できなかった。何故そんなことを言いだ すのかと、ただ驚いた。勝野の頭に、ふと光子に新しい男ができたのではないか、ただそれだけの話なの ではないか、というつまらない疑いがよぎったが、勝野のような男にしてみれば、そうとでも考えないわ けにはいかなかったのである。そして、光子にそれを問うことは勝野の自尊心が許さなかった。  勝野には、ついに光子の気持ちが理解できなかった。勝野が光子の性格に与えた解答は、解答ではなか ったのである。では、光子は自分の置かれている過去現在の境遇に、何故それほどこだわり続けるのか。 いや、光子の性格の不思議はそのことのうちにあるのではない。それだけなら、その世界から抜けだす能 力をもっていながら、そこから抜けだそうとしない光子を、かつて勝野がそう決め込んだように「臆病」 と非難することもできる。しかし不思議なのは、臆病とはまるで逆の、ある毅然とした「勇気」が光子の うちに見いだされることなのだ。それは、分をわきまえることの勇気、といってもよかった。  光子は勝野を責めていたわけではない。自分と勝野が住む世界の違いを、決定的なものとして覚っただ けだ。光子が光子の世界から出るべきでないのと同様に、勝野も勝野の世界から出るべきではないと思っ たのだ。   光子に勝野を恨む理由は何もなかった。しかし、一方的に別れを告げられた勝野には光子を恨む気持ち と未練が残った。            光子は幾日か平穏な日々を過ごした。平日は自転車で市役所に通い、週末はたまった洗濯物の洗濯をし たり、部屋の掃除をしたりした。  洗濯物をベランダに干していると、階下から時々ギターをつま弾く音が聞こえてきた。下の部屋の若者 が弾いているらしかった。音楽のことはよくは知らない光子の耳にも、それは決して上手い演奏には聞こ えなかった。しかし、耳障りというほどではない。ひとつひとつの音には生の音がもつ艶があった。 光 子はアパートの階段を上り下りするとき、その若者の部屋の前を通るから、ドアに貼られた表札に自然に 目がいった。そこには手書きで「下川」と書かれてあった。  引っ越しの日以来、アパートを出入りするときや駅の近くで、光子は数度下川を見かけている。駅前の スーパーでのときもあった。まだ勝野とつきあっていたときだ。  下川は観葉植物を物色しているふうだったが、ふと光子のほうに視線をやった。下川が振り向くとは予 期していなかった光子は、どきりとした。下川は光子を認め、頭を下げた。光子も頭を下げた。たったそ れだけのことだったのだが、光子にはこのときの下川の印象が強く残った。ベランダに出てギターの音が 聞こえてくると、光子はいつの間にかこのときの下川の様子を思いだしていることがあった。  勝野と別れてから二週間ほど経ったある日、光子は急に必要なものができてアパート近くのコンビニエ ンスストアで買い物をしたが、レジまで来て持ち合わせが足りないことに気が付いた。家はすぐ近くです から、と光子はレジ係に断って、商品をレジのカウンターに置いたまま、あわてて店を飛びだしたところ で下川と鉢合わせた。光子は下川を見て、 「五百円足りないの。貸して下さい」 と頼んだ。下川は面食らった。光子はじっと下川を見つめている。下川は言われたとおり光子に五百円を 差しだした。光子はそれを受け取って、礼を言いうのも忘れて足早にレジに引き返した。  下川も驚いたろうが、それ以上に光子自身が驚いていた。同じアパートの下の部屋に住んでいるという こと以外、素性もよくわからない男性に、こんなに大胆に接近したことを。それがごく自然にできたこと を。ごく自然にそうしたいと思ったことを。光子はいままでそんなことをした経験もなかったし、そんな ことが自分にできるとも思っていなかった。レジ係に料金を渡す光子の手は、かすかに震えていた。ふり 返って店内を見ると、下川は掃除用洗剤の棚の前で無心に商品を選んでいるようだった。  光子は、唐突に自分に相応しい相手を発見したことに心を揺さぶられた。「雷の一撃」ということが実 際にあるとすれば、それがこれだった。    光子に別れを告げられてから、勝野は納まりきれない感情のはけ口を仕事に求めたが、いっこうに気は 晴れなかった。幾度か光子に電話をしようとしたが、そのたびに、何故自分のほうから電話をしなければ ならないのか、光子のほうこそ自分に電話をしてくるべきではないのかという自尊心が勝った。それでも 一ヶ月が経って、ついに光子からなんの連絡もないと、ある夜、勝野は自宅のマンションから光子に電話 をかけた。呼びだし音が続くばかりで、光子は電話に出てこなかった。  そのとき光子は、下川の部屋にいたのである。上の自分の部屋で電話のベルが鳴っているのが聞こえて、 光子は天井を見上げた。下川もそれに気が付いた。 「いいの、出なくて?」 と下川は光子を見た。 「うん」 と光子は静かにうなずいた。            それからさらに数日が過ぎた。朝から灰色の雲がまだらに空を覆っていたが、夕方になってぽつりぽつ りと雨が降りだした。  まだ水たまりができるほどには雨粒の落ちていない光子のアパート前の砂利道に、一台の車が停車した。 車から降りてきたのは勝野だった。  勝野はアパートの階段下に光子の自転車が止めてあるのを確認して、階段を上った。光子の部屋の前ま で来て、いま自分がどんな顔をしているだろうかとふと思いながら勝野はチャイムを鳴らした。ドアが開 き、中から見知らぬ若者が顔を覗かせた。下川だった。一瞬、勝野は部屋を間違えたのかと思った。しか し、そうではなかった。勝野はドアから半身を覗かせている下川の、風采の上がらぬ薄汚れた姿をあらた めて見なおした。 「影山さんは」 と勝野は下川に聞いた。 「もうすぐ」 下川は伏し目がちに答えた。 「中で待たせてもらってもいいかな」 それは、下川に有無を言わせぬ強い調子をもっていた。 「あ、じゃあ、俺が出ます」 と言って、靴を引っかけて外に出ようとする下川を勝野が押しとどめた。 「ふたりで待ちましょうよ」 下川は勝野の態度に気圧されて、部屋の中に戻った。その後ろから、勝野も部屋に入った。  勝野は久しぶりに光子の部屋を眺めて、それがもうすっかり他人の部屋にしか見えないことに苛立った。 勝野は、自分の居場所がまだこの部屋のどこかに残されているのではないかと期待していた。しかし目の 前の見知らぬ若者をドア越しに見た瞬間から、勝野は現実に引き戻されていたといっていい。勝野は光子 から別れ話を切りだされたとき、光子に新しい男ができたのではないかと疑ったが、やはりそうだったの だと思い知った。事実は違ったが、勝野に与えた効果は同じことだった。  部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台を挟んでふたりは座った。下川はちゃぶ台の上に視線を落としたまま、 じっとしていた。  下川は勝野を知っていた。光子は下川に勝野のことを話さなかったが、下川はふたりが街を歩いている 姿をかつて見かけていたし、時折光子の部屋から聞こえてくる男の話し声が、街で見かけた男のものであ ろうことにも気が付いていた。  ふたりには、光子との関係について互いに聞きだすべきことがあったが、いま直接それを切りだすわけ にはいかなかった。 「きみ、名前は」 と遠回しに切りだした勝野は、続けざまに、 「いくつ」「仕事は」「出身は」と畳みかけるように下川に尋ねていった。勝野の口調はまるで尋問に近か った。下川は勝野の問いに素直に答えないわけにはいかなかった。勝野はますます下川の優位に立ってい ることを感じながら、 「どこに住んでるの」 と下川を追及したが、これは少し調子に乗りすぎていた。 「この下です」 と言って下川は軽く畳を叩いた。勝野は驚いた。光子が言った「住んでいる世界」という言葉がすぐに思 いだされた。光子と下川が同じアパートの上下の部屋に住んでいるという事実が、自分がふたりの間に割 って入ることを完全に拒絶していると勝野は感じた。勝野は言葉に詰まった。そのとき、ドアが開き光子 が帰ってきた。その物音に、下川がはじかれるように立ち上がった。  光子は、部屋の敷居に立って二人を見た。アパートの前に勝野の車が止まっているのを見ているから、 光子にはすでに心の準備ができていた。しかし、下川が妙に卑屈な表情で光子を見やったのには腹が立っ た。 「何しに来たんですか」 勝野を見据えて言った光子の口調は、おのずと強くなった。勝野が答える前に、 「俺、出るよ」 と下川が光子の脇をすり抜けて部屋を出ていこうとした。光子は下川の腕を取った。 「いなさいよ。いてよ」 勝野がすっと立ち上がった。 「下川君、出てくれるかな。光子さんとふたりで話がしたいんだ」 光子はなおも下川に「ここにいなさい」と目で訴えたが、下川は光子から視線を外した。 「出るよ」 下川は光子の手を軽く振り払って、部屋を出ていった。  下川が階段を駆け降りていく音が聞こえた。降りきって、部屋のドアを開ける音が聞こえた。勝野の頭 に、再び「住んでる世界」という光子の言葉が蘇った。勝野の心を、光子を責める気持ちだけが占領した。 「あんな男とつきあっていたんだな。だからぼくと別れたんだな」 光子は否定したが、勝野は聞き入れなかった。 「なんであんな奴がきみに相応しいんだ。あんな奴といれば、きみはどんどんだめになっていくだけじゃ ないか」 「もうやめて」 「ぼくはきみを救いたいんだ」 「わたしはあなたにも、誰からも、救われたいなんて思わない」 光子は、もう何を言っても無駄だと思った。勝野に何ごとかを釈明する気もなかった。すでに勝野に好意 をもっていない光子にしてみれば、それは当然だった。その当然のことが勝野には当然でなかった。光子 によって傷つけられた心の傷を光子が癒すのが当然だと勝野には思われた。結局、この日勝野が光子のア パートに来た真の理由は、光子に復縁を迫るためではなく、光子から謝罪の言葉を得たいがためだったの だ。勝野自身はそのことを意識していなかったが、勝野が「なんで、ぼくの気持ちをわかろうとしてくれ ないんだ」と苦しげに言ったとき、光子は敏感にそれに気付いた。 「わたしが謝ればいいの」 と光子は言った。勝野は光子を振り返った。 「そう思うなら、謝ればいいじゃないか」 「謝ることなんて、ない」 光子の決然とした態度に、勝野はこの上なく邪険な視線を光子に返した。 「きみはただぼくに飽きて、年下の男に乗り換えただけだよ」 ほとんど捨てぜりふのように言って、勝野は部屋を出ていった。  いつの間にか雨は本降りになっていた。車に戻る勝野を雨が打った。車内に入った勝野は窓越しに光子 の部屋を見上げたが、すぐにエンジンをかけて車を発進させた。  遠のいていく勝野の車のエンジン音を、下川は自分の部屋で聞いていた。すぐにのこのこと光子の部屋 に戻るのは気が引けたが、それでも光子のことが心配だった。下川は部屋を出て、光子の部屋のドアを開 けて中を覗いた。  ちゃぶ台の上にひじをのせて俯いていた光子が、顔を上げて、険しい表情で下川を見た。 「話が聞きたかったのなら、ここにいればよかったでしょ」 「きみが大丈夫なら、いいよ」 下川はそっとドアを閉め、自分の部屋に戻った。  アパート近くのコンビニエンスストアで、光子が下川に五百円を借りてから、ふたりは急速に親しくな ったのだった。下川の前で、光子は自分が自分でいることができた。自分の気持ちも相手の気持ちも気に しないでいられた。互いが互いを認めあい、気を許しあえた。そんな男性と出会ったのは初めてだったし、 そんな男性が存在するとは思ってもいなかった。下川の部屋で肉体的な関係をもったときも、光子はごく 自然に下川と結ばれた。精神の喜びと肉体の悦びの合一を感じ、光子はとまどうほどだった。これまでつ きあったどの男性からも得られなかった幸せだった。それは幸せ以上の何かだった。勝野のときとはすべ てが違った。  下川にしてもそれは同じだった。光子の接近を下川は自然に受け入れた。そうすることがいかにも自分 に相応しく感じられた。これまで若い女性を前にすると、どぎまぎするだけだった下川が、光子の前では なんの気後れも、なんの気遣いもしないでいられた。光子を好ましく思う気持ちを光子の前で素直に表現 できた。その感情を光子が受けとめてくれることが嬉しかった。  しかし、いま下川は動揺していた。勝野を目の前にしたときの、あのどうしようもない劣等感は一体な んだったのか。勝野の質問攻めに合いながら、下川は、勝野が下川を見下していること、下川と光子のい る世界を軽蔑していることを十分意識したが、そういう勝野の態度を自分自身で肯定するほどに下川が卑 屈になったのは何故なのか。光子と勝野がどのようにつきあい、どのように別れたのか下川は知らない。 しかし、光子は勝野ではなく下川を選んだ。そのことがいっこうに下川を優位な立場に置かないのは何故 なのか、何故こうも不安なのか。  下川はその不安を、すぐに光子に打ち明けるべきだったのだ。光子の気持ちを今すぐ問いただせばよか ったのだ。しかし、そうしなかった。そうすることが下川には恐ろしかった。  光子にしても、様子を見にきた下川を追い返すべきではなかった。勝野が最後に言い残した言葉には、 ただ悪意のみがあって、少しの真実も含まれてはいなかったのだから、光子は何も動揺する必要はなかっ たのだ。下川に八つ当たりするのは間違いだったのだ。それとも、あの一言には何がしかの真実が含まれ ていたのだろうか。  そして、勝野があの一言に光子に対する復讐の念を込めていたとすれば、それはやがて功を奏すること になるのだった。             下川は、アパートの最寄り駅から二駅先にある楽器店にアルバイトとして勤めていた。ギターがたいし て上手くないことは自分自身でよく知っていたから、仲間を募ってバンドを組むなどという気はなかった し、ギターで身を立てるなどという気はさらになかった。それでも働く場所を楽器店に選んだのは、身近 にギターがあることが一番気持ちが落ち着いたからだ。  下川は、鳥取の高校を卒業して地元の食肉会社に入社したが、毎日精肉を箱詰めするだけの単調な仕事 にはすぐに飽きてしまった。高校時代の友人の幾人かは大阪に出ていたが、それなら自分は東京に出てや ろうという見栄っ張りから上京しただけで、何か当てがあるわけではなかった。喫茶店のウェイターや配 送会社の仕分け作業のアルバイトをして、食いつないでいけるだけの金を稼いだ。六年間もそんな生活を 続けていて、下川は自分にできることはそんなことくらいなのだと思うようになった。それは諦めという のとは少し違っていた。はた目にはそう見えても、下川の気持ちとしては違っていた。故郷を飛びだした ときの見栄は、残っていなかった。結局、下川は下川なりに自分の居場所を見つけられたのである。ただ、 ひとりで部屋にいることの多い休日に、ぼんやりとテレビを見たり音楽雑誌をめくっていると、突然、得 体のしれない焦りに駆られることがあった。そんなときは高校のときから手にし始めたギターをつま弾く と、気持ちが落ち着いてくるのだった。繁華な都内のアパートを引き払い、田んぼや畑がまだ少しは残っ ている郊外に引っ越そうと思い立ったのもそんなときだった。これまで少しずつ貯めてきた貯金のすべて を引っ越しの費用につぎ込むことにためらいはなかった。うまい具合にいまの楽器店にアルバイトの口も 見つかった。楽器店での稼ぎはそれまでやってきたどの仕事よりも少なかったが、下川に不満はなかった。 光子と出会えたことを幸せに思った。下川の気持ちはすっかり落ち着いた。   それが、勝野と出会ったことで変化した。かつて時折襲われた、得体のしれない焦りと不安が蘇った。  下川は、光子とつきあうようになってすぐ、光子の部屋で寝泊まりするようになったが、ある朝、勤め に出かける準備をしている光子の脇で、下川がいっこうに布団から出てこないので、光子はどうしたのか と思った。 「俺、今日休む」 布団の中から下川が答えた。 「なんか、だるい」 「熱は」 「それほどじゃない」 光子は、下川が風邪でもひいたのだろうと思った。  午後になって、下川はコンビニエンスストアで求人雑誌を買った。アパートに帰ってきて、階段を上り かけたが、途中で足を止めた。その位置から光子の部屋のドアをじっと見上げた。下川は光子の部屋に帰 っていく自分を情けないものとして感じた。回れ右して階段を下り、下川は自分の部屋に入っていった。 やがて、ギターをつま弾く音が下川の部屋から漏れ聞こえてきた。  夕方、光子がアパートの部屋に帰ってみると、出迎えた下川が意外に元気なので光子は安心した。光子 が部屋着に着替える脇で、下川は妙に浮かれていた。 「俺にテレビの仕事とかできるかな」 「なんで」 光子は下川の真意を測りかねた。 「いまやってる仕事続けても、しょうがないだろ」 「なんで」 「あんな仕事、つまらないだろ」 着替え終わって台所に向かう途中で、光子はちゃぶ台の上に求人雑誌が開かれているのに気が付いた。 「そんなの、無理でしょ」 下川は光子の断定に驚いた。今度は下川が光子に「なんで」と聞く番だった。 「それ、本当にやりたいの」 「ああ」 「似合わないよ」 「やってみなくちゃ、わからないじゃないか」 「そんなのやって、どうするの」 「どうするって」 「いまの仕事、気に入ってたんでしょ」 「だからあんなの、意味ないよ」 「テレビの仕事には意味があるの」 下川は、光子がこんなにも強硬に反対するとは思っていなかったから、腹が立った。下川を無視するよう に食事の支度を始める光子が憎らしくなった。 「もういいよ」 下川はごろんと横になった。下川がこう不貞腐れてしまっては、光子も愉快ではない。話はそれきりにな ってしまった。  その夜、下川は自分の部屋に帰っていった。光子は下川のしたいようにさせた。床についた下川の頭に 去来するのは、やはり勝野のことだった。  その週、下川はついに仕事に出なかった。  下川は自分が何に苛立っているのか、自分自身でわからなくなっていた。このままではいけないと思い ながら、では何をしたらよいのか。何をしても落ち着けないように感じた。テレビの仕事がまったくの思 いつきだったことは自分ながら認めないわけにはいかない。しかし光子と顔を合わせると、光子にそれを 見透かされたことがくやしく思いだされ、苛立ちの原因はこの女なのだと思えてきて、むっとしたまま光 子と口をきかなかった。かと思えば、夜の遅い時間に光子の部屋にやってきて、明日遊園地にでも行かな いかと光子を誘ったりした。光子は下川のそんな幼児的で刹那的な態度に呆れるほかなかった。腹立たし くさえあった。 「言いたいことがあるんなら、言ってよ」 と光子は思わず声を荒げた。下川は光子をじっと見つめてから、自分の顔を両手で覆った。 「いいよ、べつに」 下川は光子の部屋を出ていった。  下川がいまの生活に焦りを感じ、思い悩んでいることは光子にも察しがついた。しかし、下川をおだて たり無理に励ますことが思いやりとは光子には思えない。下川に対して心を偽ってまで何かをしようとは 思わないし、またそれができる光子ではない。下川が自分で立ち直るのを待つしかないと光子は思う。光 子は自分に正直でいることと引き換えに、他人に対するいわゆる優しさというものを失ったといえるが、 しかし、下川が機嫌を損ねたことはやはり辛かった。光子は自分の性格が下川を追い込んでいるのだろう かと感じた。そんなことを思うのは初めてのことだった。しかし、光子にはどうすることもできなかった。  下川が、どうやって勝野が住んでいるマンションを探し当てたのかはわからない。勝野が帰宅すると、 部屋のドアの前に下川がうずくまっていた。下川は、顔だけ上げて、ドアに近づいてくる勝野をじっと見 据えていたが、やがて静かに立ち上がった。 「話があるんですけど」 妙に落ち着いた態度だった。勝野は好奇の目で下川を見た。一体自分になんの話があるのか見当もつかな かったが、勝野は下川を部屋に招き入れた。  広いリビングに通されて、下川は突っ立ったまま、勝野がゆっくりとスーツを脱ぎ、ネクタイを外し、 ソファに腰を下ろすのをただ見ていた。ソファに座って足を組んだ勝野は、いっこうに話を切りださない 下川を苦笑しながら見やった。その苦笑が、下川の口を開かせるきっかけとなった。 「勝野さん、いくつですか」 はじめ勝野には下川が言っていることの意味がわからなかった。 「歳ですよ」 と言って、下川がにやっと笑ったのを見て、ああ、そうか、と思い当たった。光子の部屋で下川を追及し た仕返しなのだな、と感づいた。案の定下川は、勝野の出身地、仕事の内容、マンションの値段までを勝 野の答えを待たずに矢継ぎ早に尋ねた。 「いいよ。もうやめろよ」 初めて勝野が口を開いた。下川は口を閉じ、じっと勝野を見つめていたが、やがて静かに自分の生い立ち や、上京したいきさつや、これまでしてきた仕事の話をし始めた。勝野には、下川がなんでそんなことを 話しだすのか見当もつかない。好奇心から下川を部屋に通したものの、いまや勝野はすっかり興ざめして しまった。 「もういいよ。帰ってくれ」 勝野は立ち上がって下川に近づき、その腕を取ろうとしたが、下川が身をかわした。下川は勝野の視線を 避けながら、 「光子はなんであんたじゃなくて、ぼくみたいな男を選んだんですか」 と苦しげに言った。勝野はあきれてしまった。 「そんなこと彼女に聞けよ」 「聞けば教えてくれますかね」 「知らないよ、そんなこと」 「教えて下さいよ。なんであんたみたいにいい暮らしをしてる男じゃなくて、ぼくみたいにつまらない男 を選んだんですか」 今度は勝野がじっと下川を見つめた。  下川の焦りと不安の中心は、結局そこにあったのである。光子が世間的に見て明らかに上位者である勝 野を捨て、下位者である下川を取ったことの不可思議が、下川には理解できなくなっていた。その理由を 勝野の口から言わせることで、勝野に対する優位を確かなものにしようとしていた。これまで誰にも認め られることのなかった下川が、唯一自分を認めてくれた光子をいわば武器にして、勝野が代表する世間と いうものに対して復讐を企てているといってもよかった。上京してから六年の間にやっと自分の居場所を 見定め始めていた下川の自信と安らぎは、目の前に現れた勝野によっていとも簡単に粉砕されたのだ。下 川は、不安と焦りの中でその修復に躍起となっていたのだ。だから下川には、どうしても勝野の口を開か せる必要があった。しかし勝野の目には、もはや下川が相手にもならない負け犬としか映らなかった。光 子を間に挟んで、かつて自分が下川に嫉妬したことが馬鹿らしく感じられた。光子が言っていた「同じ世 界の人間」とは、つまりこんなにも下らない人間なのかと、いよいよ下川を見下した。下川を見下すとい うことは、同時に光子をも見下すということだが、勝野は勝野で、そうやって光子に傷つけられた心の傷 をすっかり癒そうとしていたといえる。だからこの場合、勝野にとって下川は格好の餌食だった。勝野は 勝者の余裕をもって下川を見た。 「うまくいってないんだな」 「何がです」 「きみらだよ」 「うまくいってますよ。だって、光子はあんたじゃなくて、ぼくを取ったんだ」 下川にとって、この一言は切り札のはずだった。しかし、勝野にとってそれはもうどうでもいいことだっ た。勝野は、ふんと鼻で笑った。下川はほとんど逆上した。 「何が可笑しいんです」 「いや、べつに」 「いま笑ったじゃないですか」 「彼女が言っていた『同じ世界のひと』っていうのがきみみたいな男かと思うとね、なんだか可笑しくて ね」 「ぼくらを馬鹿にして嬉しいんですか。馬鹿にしないと安心できないんですか。あんた、本当は不幸なん だろ」 「いや、きみのおかげですっかり幸福になれたよ」 これはほとんど勝野の勝利宣言だった。下川がなおも言い募ろうするのを勝野が制した。 「きみはぼくには勝てないよ」 残酷な宣告を受けて、下川は言葉に詰まった。 「本当は羨ましいんだろ、ぼくが。ぼくの暮らしが。ぼくみたいな男になりたいんだろ」 「うるせえな」 下川は勝野の声を振り払うかのように言った。勝野は部屋の隅にいって、本棚から数冊の本を無造作に抜 き取ると、それを下川の胸に押し当てた。 「これを読んで勉強してみろ。勉強したら会社にきてみろ。面接してやる。面接次第で採用してやる」 下川はじっと本を見た。いつまでも下川が本に手を出さないので。勝野はそれを床に放り投げた。下川は 屈辱感を味わったが、同時にその本を手にすることが自分にとって救いであるかのように感じた。  その夜、アパートに帰ってきた下川の手には、その本が握られていた。本を手にしたとき、下川は、こ れまで自分を受け入れなかった世間の側に自分の居場所を発見できたような気持ちになった。自分と勝野 が同じ世界の中にいて、いつか勝野と対等になれる可能性があるのだという自信さえ湧いた。得体のしれ ない焦りと不安から開放されたような安堵を得た。それが光子に対する裏切りであることなどには、まる で思い当たらなかった。  アパートの前まできて、下川は光子の部屋を見上げた。通路に面した小窓に、台所に立つ光子の影が動 いた。下川は階段を上っていった。  部屋のチャイムを鳴らすと、光子がドアを開けた。光子と顔を合わせて、さすがに下川はきまりが悪か った。手にした本を隠すようにして部屋の中に入った。ドアを閉めた光子は、下川をじっと見つめていた。 下川は光子の視線を感じて、照れるように本をちゃぶ台の上に置いた。 「俺さ、これ、勉強するよ」 光子はちゃぶ台を挟んで下川と向き合って座った。 「あのひとから電話があったよ」 「あのひとって」 「面接の話は冗談だ、って言ってくれって」 下川の顔から血の気が引いた。体が自然に動いて、ふらっと立ち上がった。勝野の罠にまんまとはまった 自分の愚かしさを思い知らされた。それを光子に知られたことの恥ずかしさから逃れたくても逃れられな い。下川は何をどうしたらいいかわからなかった。込み上げてくる怒りをどこにぶつけていいかわからな かった。  光子が勝野の伝言を下川に伝えたのは、下川にもう目を覚まして欲しいからだったが、光子はそれが下 川にとってどれほど残酷な一言に響くかには思い当たらなかった。光子の冷静な判断は、下川の感情を刺 激する効果しかなかった。 「俺のこと、馬鹿にしてんだろ」 光子に背を向けて、やっと下川が言った。 「そんなことないよ」 「じゃあなんだよ。同情かよ」 「そんなこと、ないよ。あのひとが酷いだけだよ」 勝野によって傷つけられた下川の自尊心が、下川を光子に対して必要以上に残忍にした。 「あんたみたいな貧乏臭いやつと一緒にいると、俺までだめになる」 光子は下川を見上げた。その背中をじっと見た。 「わたしのせいじゃないよ。あのひとに会ったからでしょ。あのひとの暮らしが羨ましいんでしょ。嫉ん でるんでしょ」 「人並みの生活したいって思っただけじゃないか」 「今は人並みじゃないの」 「なんだよこんなぼろアパート。俺をずっとここに閉じこめる気かよ」 下川の言葉はいよいよ怒気を含んでくる。光子の感情もおのずと昂ぶった。光子は立ち上がった。 「ひとがどんなところに住んでいようが、ひとからどう思われようが、そんなこと関係ないじゃない。自 分がほんとはどうしたいのかもわからないくせに、そんなことだけ気にするから、余計ひとから見下され るんでしょ。あのひとにだって馬鹿にされるんでしょ」 「自分が馬鹿にされたからって、俺まで道連れにするなよ」 「あのひとにどう思われようとかまわない。でも、あなたにそんなふうに思われたくない。なんで自分と あのひとを比べるようなことするの。馬鹿らしいって思わない」 「あんただって俺とあいつを比べたんだろ。今でもそうなんだろ」 「比べたことなんてないよ」 「じゃあ、なんで俺なんだよ。なんであいつじゃなくて俺なんだよ」 必死の表情でふり返った下川を光子はじっと見た。 「初めて会ったとき、あなたにお金貸してって頼んだとき、自分にあんなことができるなんて思ってもい なかった。でも、そうしたかった。あなたなら大丈夫だって、すぐに感じた。わたし、あのとき震えてた。 こんなに気を許せるひとがいるなんて思ってもみなかった。そんなことがあるなんて信じられなかった」 これが、あれほど下川が知りたかった答えである。しかし、いま現在の下川が望んでいる答えではなかっ た。光子の言葉に、下川はまるで心を動かされることはなかった。下川は光子から顔を背けた。堰を切っ たように光子の言葉が続いた。 「わたしたちこのままでいいのよ。このままじゃないとだめなのよ。あなたは自分らしくないことをやろ うとしてる。自分でもできないって知ってるのにやろうとしてる。勝野さんにはそれができても、あなた には勝野さんのまねはできないのよ。する必要はないのよ。勝野さんは勝野さんで自分に正直にしてるん だと思う。わたしも自分に正直でいたい。だからあのひととはいられなかった。あなたにも正直になって 欲しい。見栄張ったってなんにもならないってわかって欲しい」 「俺、もうすぐ三十だよ。今なんかやらなきゃ、もうだめなんだよ」 「歳なんて関係ない。ひとと比べたら自分を見失うだけなのよ」 皮肉を込めた笑みを浮かべて、下川が光子を見た。 「そんなかっこいいこと、よく簡単に言えるな。俺はあいつを嫉んだよ。羨ましく思ったよ。それって正 直な気持ちじゃないのかよ。あいつと俺がいれば、誰だってふたりを比べるだろ。比べれば、誰だってあ いつのほうが上だって思うだろ。あんただってそう思ったことがあるんだろ。俺とあいつを比べたことが ほんとに一度もないのかよ。そんなの不自然だろ。ただ認めたくないんだろ」 「違う」 「違わないよ。あんただって見栄張ってんだよ。本当は三十過ぎてなんにもなってない自分が惨めなんだ よ。それをひとに言われるのが嫌なんだよ。そうじゃないって思いたいんだよ」 「見栄なんか張ってないよ」 「いいじゃないか、見栄張ったって。人間なんてそんなもんだろ。悪いけど、俺は普通に下らない人間だ よ」 「下らないとか偉いとか、そんなこと言ってない。わたしたちが今ここにいるのは誰のせいでもない。そ れがわたしたちなのよ。自分が自分でいることがなんで恥ずかしいの。なんで見栄張らなくちゃいけない の。ひとから羨ましがられるような生活なんて、どうだっていいじゃない。自分らしくしていられること のほうがよっぽど大事でしょ。ほかのものが手に入らなくても、それだけは捨てちゃいけないでしょ。あ なただって本当はそう思ってるんでしょ」 「勝手にあんたの仲間にしないでくれよ。あんたは最初から俺のところに押し掛けてきたんだよ。俺はわ けもわからずあんたに引っ張られただけだよ。俺だって男だよ。女と人並みに付き合いたいよ。そんなこ とまで羨んでるとか嫉んでるとか言うのかよ。別に言ってもいいさ。その通りなんだから。でもそれを責 める権利があんたにあるのかよ」 「誰も責めてなんかいない。自分で気付いて欲しいだけよ」 下川は、どこまでも自分を追いかけてくる光子の言葉に苛立った。 「俺がどんな気持ちでいるか、あんた考えたことないよな」 「そんなことない」 「じゃあなんで足引っ張るようなことばっかり言うんだよ。俺の気持ちがわかるんなら、もっと思いやっ たり励ましたりしてくれてもいいんじゃないのか。自分が折れたり、相手に合わせたりするんじゃないの か。ふたりでいるってそういうことだろ」 「そんなの嫌だよ。そんなことじゃないよ」 「あんたは自分だけが大事なんだよ。俺を苦しめてるのはあいつじゃないよ。あんただよ。悪いのは俺だ けなのか。あんたはいつも正しいのか。間違ってるって思ったことないのか」 光子は、はっとした。自分の性格の強さが下川を追い込んでいるのではないかと、一度は思い当たった光 子なのである。しかし昂ぶった光子の感情は、光子に冷静な反省を促す余裕を与えなかった。 「どっちが正しいとか悪いとか、なんでそんなこと決めようとするの。考え方が違うのは当たり前じゃな い。それでけんかになったっていいじゃない。相手に合わせて言いたいことも言えなかったり、ほんとは どう思ってるのかなんて探り合うより、思ったことをそのまま言えるほうがずっといいでしょ。そうじゃ なきゃ、ふたりでいることの意味なんてないでしょ。思いやるとか励ますとか、ただわたしに甘えてるだ けでしょ」 光子の厳しさは、下川には堪え難かった。下川は、ふたりの間で何かが終わってしまったのだと感じた。 「俺のこと、好きじゃないんだな」 「好きよ」 「好きだったら、こんなふうにはならないよ」 「好きよ。でも、あなたの言ってる好きとは違う」 「もういいよ。わかったよ」 「わかってない」 「あんたと別れたくないよ。でも、もうだめだろ」 「だめじゃないよ。前のあなたに戻ってよ」 光子は下川の腕を強く握った。 「あなたが嫌いだからこんなこと言ってるんじゃない。こんなふうに言い合ったって、あなたとずっと一 緒にいたい気持ちは変わらないのよ。あなただから一緒にいられるのよ」 「もう無理なんだよ」 光子の手を下川は振り払った。 「あなたはわたしからだけじゃなくて、自分からも逃げようとしてる」 「もううんざりだよ」 「逃げないでよ。今逃げたら、ただの意気地無しだよ。わたしを憎んだってどうにもならないんだよ」 「最後まで自分のやり方を押し通すんだな。最後まで強がるんだな。俺達の気持ちはもうバラバラだよ」 「そんなことない」 「自分の弱さを認めろよ。でなきゃついていけないよ。俺は苦しいままだよ」 下川を失うことに対する怖れの気持ちとは裏腹に、まるで挑みかかるかのように光子は下川を見た。しか し、それは結果的にそう見えただけで、ぎりぎりにまで思い詰められた人間の一般的な表情にすぎない。 「わたしが謝ればいいの。そう思ってるの」 「そう思うんなら、謝れよ」 「嘘でもいいから謝ればいいの。そうすればここにいてくれるの」 勝野と最後に会ったときもこうだった。嘘でもいいから勝野に謝っていれば、少なくとも光子は勝野に憎 まれはしなかったろう。しかしその嘘が、光子には言えない。ましてや、いま下川に嘘を言ってはいけな い。そんなことをすれば、光子にとって下川とふたりでいることの意味がなくなるのだ。光子の心は張り 裂けそうだった。 「謝ることなんて、ない」 光子は、涙が落ちるのを必死にこらえた。下川は、じっと光子を見た。 「そんなに自分が大事なのか」 自分を殺して、なお下川と一緒にいることに意味があるのだろうか。自分を殺した後に、光子の一体何が 残るのだろうか。光子が自分であり続けようとするそのことのうちに、罪があるのだろうか。 「それじゃあ誰もあんたなんかと一緒にいられないよ。それでいいんだな。平気なんだな」 「平気なわけない」 こらえていた涙が、光子の瞳からぽろぽろとこぼれ落ちた。光子は膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。 「わたしにはこうしかできないのよ。こうしかできないの。それでも、わたしにはあなたしかいない。あ なたがここから出ていっても、あなたを思う気持ちはずっと変わらない。たとえひとりになっても、あな たのことをずっと思ってる」 下川は、光子を哀れとは思わなかった。もう憎くもなかった。ただ、目の前にいるこの女性をはっきりと 他人として意識した。 「きみは誰からも愛されない。そういうひとだよ」 光子には、もう何もわからなかった。言うべきことはすべて言った。しかし、伝えたいことは何も伝わら なかった。  下川は、静かに部屋を出ていった。ドアが閉められる音を、光子は聞いた。  いつの間にか空は白んでいた。下川はゆっくりと階段を下りた。下りきって階段を見上げた。階段の一 段一段が、そのまま自分と光子の心の距離ように思えた。もうこの階段を上って、その距離を縮めること はないのだと下川は思った。下川は自分の部屋に入っていった。  薄暗い室内には、朝の冷気がこもっていた。下川は膝を抱えて床に座った。膝を抱いた両手が目の前に あった。下川はじっとそれを見つめていた。やがて目を転じた。壁に立て掛けられたギターを見た。下川 は立ち上がり、ギターを手にした。手にしたまま、いつまでも弾こうとはしなかった。ギターを戻して、 窓に近づいた。カーテンを引いた。窓ガラス越しに、こもった明け方の光が室内をぼんやりと明るくした。 窓を開けた。外の空気がゆっくり室内に入り込んでくるのを下川は感じた。どんよりとした厚い雲が空を 覆っていたが、その一角が開いて、太陽が姿を現そうとしていた。下川は再び室内に目を転じた。ゆっく りと天井を見上げた。そこに光子がいる、と思って、階段を見上げたときに感じた光子との距離をもう一 度思いだした。誰からも愛されないのは光子だろうか。それはまた下川ではないのか。勝野ではないのか。  下川はじっと天井を見上げていた。   後記  ここに掲載した文章は、映画『UNLOVED』のひとつの物語に過ぎません。ひとつの物語というこ との意味は、この映画が、見る人によって様々に違った物語を喚起するからにほかならず、そのうちのど の物語が正解であるということがないからです。現にここに揚げた物語は、おもに万田邦敏によって書か れましたが、『UNLOVED』のそもそもの企画者であり邦敏と共同で脚本を執筆した万田珠実は、こ の物語とは違った物語を『UNLOVED』に見ています。それはおもに主人公光子の視点に立った物語 ですが、ここに掲げた物語は光子を巡るふたりの男性の視点に重点が置かれています。この差異は、男女 の違いによって起こったともいえますし、そのように一般化されない、邦敏と珠実の個人的な性行の違い によって起こったともいえます。いずれにせよ、邦敏と珠実が読者にお願いしたいのは、ここ掲げた物語 があくまでもひとつの物語に過ぎず、映画『UNLOVED』の唯一正しい解釈であるとは決して思わな いでほしいということです。